わたしたち全速力で遊ばなきや 微かに鳴つてゐる砂時計

石川美南『砂の降る教室』(2003年)

 

とつておきの死体隠してあるやうなサークル棟の暗き階段

「怒つた時カレーを頼むやうな奴」と評されてまたふくれてゐたり

想はれず想はずそばにゐる午後のやうに静かな鍵盤楽器

六着のコートを連れてクリーニング店へ繰り出す 春となるべし

文法書をこりこり齧る音のする教授の部屋の扉を叩く

しゆんしゆんと南の風の迫る午後 柳の芽など見て泣くもんか

枝豆の豆飛び出して夏休み今日は日陰を選ばずにゆく

 

『砂の降る教室』は、著者・石川美南が大学を卒業した年に刊行された一冊。明るく、さわやかな作品が溢れている。

明るさやさわやかさ。それは、確かな文体に支えられている。あるいは、構成のうまさということかもしれない。日常を生きながら日常が短歌に置き換わっていく、そんな日常=身体のありようが、心地いい。

 

わたしたち全速力で遊ばなきや 微かに鳴つてゐる砂時計

 

「わたしたち全速力で遊ばなきや」。印象的なフレーズだ。「わたし」ではなく「わたしたち」。教室の仲間だろう。仲間を包みながら、仲間に包まれながら、「わたしたち」はいる。その仲間と「全速力で遊ばなきや」いけない、いまという時間。「全速力」が、いまという時間をいきいきと掴んでいる。

「微かに鳴つてゐる砂時計」。穏やかな、しかし句跨りのリズムが、巧みだ。むろん、「鳴つてゐる」という把握も。

「砂時計」が、いいなあ、と思う。砂時計は、時刻を示さない。流れを、いや限りある流れを示す装置。その砂が「微かに鳴つてゐる」ことの痛みを思う。

口語の響きと旧かなの組み合わせが美しい一首だ。

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