堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(2013年)
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
寒くなる季節の中で目を開けてかすかな風景を把握する
居酒屋に若者たちは美しく喋るうつむく煙草に触れる
きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く
揉め事をひとつ収めて昼過ぎのねじれたドーナツを買いに行く
君は夢中で道路の脇のカタバミを見ている 本は本から生まれる
僕とあなたの位置関係を告げなくちゃ辿り着けない夕焼けの駅
生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらに乗せ手を温める
僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る
バス停にバスが着く間に考えた話に深くピリオドを打つ
堂園昌彦の『やがて秋茄子へと到る』から、こんな10首を引いてみる。おそらく、私はこれらを受け取っていない。その佇まいをただ眺めているだけなのだと思う。
私たちは、短歌をつくっている。そう、ことばを使って。しかし、ことばと短歌との関係について、私たちはわかってはいない。短歌において、ことばがどのように働き、どのような役割を果たしているのか。たとえばこんな問いに答えるのは、なかなか難しい。個別・具体の短歌においてではない。
ふとそんなことを思ったりする。
前籠に午後の淡雪いっぱいに詰め込んだまま朽ちる自転車
街のところどころに、忘れられたような自転車がある。どこかが錆びて、あるいは籠に空き缶が溜まったり、タイヤに昼顔の蔓が巻き付いたり。しかし、そんな自転車は春も夏も秋も冬もそこにあって、私たちより季節を感受しているのだろう。だから、そこにあるとなんだか安心できる、そんな表情をしている。
「淡雪」。それは、春先の、うっすらと積もってすぐ解けてしまう雪。だから、前籠が淡雪を「いっぱいに詰め込んだまま」ということはない。しかし、確かに「いっぱいに詰め込んだまま朽ちる」のだとも思う。二句で切れるとすれば、何かを「いっぱいに詰め込んだまま朽ちる」のだろう。二句で切れないとすれば、日常の襞がふと見えてしまったのだろう。「~まま朽ちる自転車」。いずれにしろ、自転車はここにいてくれる。それが、うれしい。
「この本は、世界にあるたくさんの本たちと同じように、多くの悲しみと、わずかだが揺るぎない喜びから生まれた。この本が、ほんの些細なことでかまわないから、あなたの助けになることを、私は、心から願っている。」
あとがきは、こんな美しいことばで結ばれている。一冊は、一首だけ置かれたいくつものページによって構成されている。それは、「多くの悲しみと、わずかだが揺るぎない喜び」の、確かな証=誇りなのだろう。「本は本から生まれる」。誇りは、敬意に支えられている。