吉野 裕之


なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました

やすたけまり『ミドリツキノワ』(2011年)

 

散文的な、しかしいわゆる定型の、整った一首。韻律がやわらかい。「とおくから来たものたち」。おそらく外来植物のことだろう。野原にはたくさんの植物があったけれど、どれも外来植物だった。

 

本棚のなかで植物図鑑だけ(ラフレシア・雨)ちがう匂いだ

ポップコーンみたいに増えて困ってる ないしょで蒔いたフウセンカズラ

ブランコの板をかかえて目をとじて(嵐の海で船はこわれて)

ながいこと水底にいたものばかり博物館でわたしを囲む

ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まようパレット

やまのこのはこぞうというだいめいはひらがなすぎてわからなかった

毒のあるさかなは毒があることを知らないわたしを刺さなかったよ

おひるだよ 呼ばれて立ち上がったからバケツの国は消えてしまった

のら犬のクロ・自転車に乗れるきみ・乗れないぼくの順に夕日へ

泣いた場所おぼえていても泣いていたときのきもちをわすれるわたし

 

やすたけまりの歌集『ミドリツキノワ』は、たとえばこんな作品を収めている。子どもの頃の〈私〉が、親しく語りかけてくる。

「のら犬のクロ・自転車に乗れるきみ・乗れないぼくの順に夕日へ」。ときに男の子になったりしながら、しかしこの子はどこにいるのだろう。

 

なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました

 

「なつかしい野原」。おそらく、〈私〉にとって野原はなつかしくはない。だから、「なつかしい」というのだ。「なつかしい」とことばにすることによって、「野原」の意味を保とうとしているのだと思う。あるいは、「野原」はなかったのかもしれない。

「できていました」。こう語ることができる〈私〉は、「野原」という風景の外にいる。「野原」という風景は、いわば〈私〉がつくった情報なのだ。

私たちはみな、記憶として子どもの頃をもっている。楽しいこともたくさんあったけれど、悲しいことや辛いこともたくさんあったはずだ。私たちは、「いま・ここ」を生きるために、記憶を組み立てていく。記憶をつくり直していく。この子とはつまり、そのために仮構された主体のこと。だから個をまとわない。

この子は私たちひとりひとりのなかにいる。