「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

穂村 弘『シンジケート』(1990年)

 

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

モーニングコールの中に臆病のひとことありき洗礼の朝

抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に

夕闇の受話器受け(クレイドル)ふいに歯のごとし人差し指をしずかに置けば

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

鳥の雛とべないほどの風の朝 泣くのは馬鹿だからにちがいない

「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜

 

穂村弘の最初の歌集『シンジケート』から、たとえばこんな作品を引いてみる。リアリティはいまも変わらない。それはおそらく、現実ではないからだ。形。キッチュだけれど、とてもチャーミングな形が、〈私〉や〈私〉を取り巻くもの/ことの本質を描き出している。だから、変わらないのだと思う。

 

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 

「ブーフーウー」は1960年代にNHK総合テレビで放送されていた着ぐるみによる人形劇。ブーとフーとウーという3匹の子ぶたと3匹を食べようとするオオカミのお話。キャストは、ブーが大山のぶ代、フーが三輪勝恵、ウーが黒柳徹子。なかなか豪華だ。内容はほとんど覚えていないが、私も楽しく見ていた。

おそらく恋人と〈私〉の会話だけで構成された一首。会話だけなので、背景はない。それが一首をくっきりとさせている。

「あたしが誰かわかってる?」。むろん、〈私〉はわかっている。しかし、「ブーフーウーのウーじゃないかな」とはぐらかす。もしかしたら、恋人は「ブーフーウー」を知らないかもしれない。知らなければ、知らなくてもいいのだ。そう、〈私〉のひとりごとなのだから。

恋人の問いかけをはぐらかす。だから、問いも答えも〈私〉のなかに残ってしまう。私たちは、こんな問いと答えをいくつも抱えながら、生を過ごしているのだと思う。

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