前田康子


告知されその名のごとく病み臥して足二本分の崖に立ちゐき

落合けい子『赫き花』(2014)

 

何か大きな病を告知された。まずそれだけで精神的に苦しむ。何事もなかった日常が不安や怖れで一杯になる。その次に体の痛みや、手術や投薬によるダメージなど、思いも寄らぬことがその人を次々とおそうだろう。この一首もそんな場面だ。下句に作者の追い詰められた心境がよく表われている。「足二本分」だからもう前へも後へも一歩も動けない。どちらに行っても落ちそうな辛い自分の状況を、客観的に見て詠んでいるところに、心打たれる。

 

帰り来てたれも居ぬ家こゑ出してしんどかつたと埃をはらふ

隠し場所思ひだせないキンツバの光る蛙になりさうな夜

歌ひとつできて嬉しき(あした)なり嬉しきこころ思ひ出しつつ

 

生活のなかの一コマだが、作者の姿がよく見えてくる。一首目は疲れて帰ってきた自分を受け止める者が誰も居ない家。あえて声に出して「ああしんどかった」とでも言ってみている。身体のなかにこもっていた気持ちが声をだすことにより少しほぐれることがある。そういった様子が素直に詠まれている。

また二首目は、作者がキンツバを隠しておいている設定から面白い。独り占めしようとしていたのか。そしてその隠し場所を本人も忘れてしまった。キンツバは部屋のどこかで傷んでいるのかもしれないが、それを光る蛙になると想像する。とても楽しい歌だ。

また三首目は病とたたかいながら、本来の自分を取り戻そうとしている時期の歌。歌人の歌で、短歌を作ることに苦しんでいる歌はよく見かけるが、この一首のように素直に作歌に喜びを感じている歌は少ない。真っ白な無の世界から、一首の歌を創り出すことの喜びをあらためて我々は思い出しかみしめる。

 

パソコンの眼鏡といふが気に入りて庭にでて見る南天の色

走行の自転車のみの動画にてその夜の再生三十一回

 

現代の世の中にある素材もさりげなく詠まれている。一首目はパソコンを見るときに目が疲れないようにかける、色つきの眼鏡を詠んでいる。どんな風に見えるのか知らないのだが、それでパソコンを見るだけでなく庭に出て、南天の実の見え方を確かめて見ている。作者の行動もおもしろい。

また二首目はyou tubeなどの動画サイトのことを詠んでいるのだろう。自分が撮った動画をすぐにインターネット上にあげることができる。これは、今人気のロードバイクのようなものだろう。それも走行のみの動画だから、マニアな人しか見ない。再生回数が「三十一回」というのがリアルだ。こういった新しい素材もどんどん詠んでいくことにり、歌の幅が広がるし、そこに歌を詠む楽しさを感じる。