久野はすみ『シネマ・ルナティック』(2013 年)
上の句の「暮らしましょう」は、呼びかけだろうか、それとも自らへ言い聞かせているのだろうか。
気の合う友達と「おんなどうしで」暮らす心地よさは、配偶者との生活の便利さとも、一人暮らしの気ままさとも違ったものに思える。そう思う人が多いのだろう、高齢女性のためのシェアハウスも少しずつ増えているようだ。「おとこどうし」というのは、どういうわけか妙なプライドや対抗意識が生じがちで、なかなか折り合いが難しかったりする。
フランスでは、若者と高齢者が居住空間を分け合う形のシェアハウスが増えているという。週に何日か食事を共にしたり、買い物支援をしたり、と条件はさまざまだが、互いに利点があり、かつ違った世代との交流が心を豊かにするらしい。
この歌の面白いところは、下の句で「木の実草の実分けあいながら」と少し不思議な光景へ展開してみせるところである。何だか、太古の女たちが採集してきたいろいろな実を分け合っているような、悠久の平和とも言うべき姿が目に浮かぶ。男たちは狩りに出かけ、獣を捕えてくるのだけれど、もう私たち年もとって、そんなに動物性たんぱく質を食べたいとも思わない。だから、いいの、木の実や草の実を食べていれば―――。そんな気分だろうか。
この作者は多分、シェアハウスのことなど真剣に考えてはいない。「どうして男って、そう攻撃的なんだろう。大昔の狩りの本能があるからかしらん……」。昨今のきな臭さの原因の一つが資源を分け合うことの難しさから来ていることを思うと、「おんなどうし」の穏やかな関係性をどこかに活かせないものか、とため息をつきたくなる。