道浦母都子『はやぶさ』(2013年)
明石海峡大橋の眺望と、父の包容力とが重なって見えている。夏の海を前にして、あてどなく作者の父を恋う気持ちは、募ってゆく。「こんなにも広くて大きな腕が」欲しいという、今は亡き父に甘えたい思いを、身振り大きく堂々と歌い上げる。この線の太いところと、歌謡の歌詞に通ずるような感傷性、それから長所としてのかすかな通俗性が、道浦母都子の持ち味であり、それは初期の『無援の抒情』の頃から変わりない。
明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし
『無援の抒情』(1980年)
これは人のこころの内側にある血の騒ぐ部分を一度にぱっとつかんで言葉に変えたというような歌だったのであり、この歌を作った時点で確かに作者は、なにものかに選ばれた存在として、同時代の同じ苦しみを負い、同じ挫折を味わった若者の思いの代弁者となったのである。そうしてこの思いを歌集としてまとめあげるまでには、十年の歳月が必要だったのだということを、あらためて『全歌集』(2005年刊)で、その発行年を確認しつつ思った。
道浦母都子の歌は、言葉とことばの間に流れる余白を、たっぷりとした情感で満たしているところに特徴があり、しかも彼女の孤独感を吐露する歌は、常に世界全体の痛みに触れながら揺れる振幅を持っている。世界の傷を己のいたみとして言葉のうちに抱きしめること、それが道浦母都子の歌人としてできることであるとともに、戦後七十年の日本人の思想的な営みの持つ意味は、ここに尽きるのではないかと、ひそかに私は思う。
だんだん話が大きくなってきたが、良くも悪くも「大状況」とかかわることを己の歌の成立する根拠に据えるほかはないところに押し出されている、それが歌人であることの意味なのだということを、どうしても歌の形で示してゆくほかにない。たとえて言えば、それは「愛」のようなものの現われなのかもしれないが、キリスト教的な「愛」というものとは、また違った表現なので、もっと個人的な情感の世界の共同性に属したものなのである。だから、「短歌」なのだ。これは道浦母都子論と言うよりも、短歌否定論を言う自分の恩師と何十年も前に議論をして言い負けたことへの、何十年後の私の捉えかえしの認識の言葉でもある。ぶざまで格好の良いことが言えなかったからこそ、短歌が残った。そういうことを、近刊の歌集『はやぶさ』を見ながら考えた。
助手席に乗せられ移動する間も線量計の針揺れやまず
「人間は核という細き糸で吊るされている」ジョン・F・ケネディ死の前言いき
『はやぶさ』
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