三井 修


若き日の過誤かへるまで畳目のしづかさにしむ秋雨の音

砂田暁子『季の風韻』(平成28年、飯塚書店)

 誰も若き日は様々な過誤に満ちている。思想、恋愛、友人関係、家族関係、学問や職業等々、過誤ばかりである。それは青年特有の過剰な感傷性、未来への余りにも純粋な希望、そして人生経験・社会経験の不足によるものであろう。しかし、それに気付くのは大人になってからなのである。大人になった皆が若き日の過誤を切なく、甘く、そして苦く思い出す。

 作者は昭和17年生まれとあるから、今年で74歳となる。その作者が今、畳の上に座りながら秋雨の音を聞いている。秋はそもそも淋しい季節であるが、静かな雨音がその淋しさを一層増幅させる。そんな時に脳裏をよぎるのが半世紀ほど前の苦い思い出なのである。楽しいこともきっとあったはずなので、なぜか思い出すのは過誤ばかりである。そして、その雨音は作者の苦い思い出を引き出しながら、畳の目に静かに沁みていく。

 ここには叙景と抒情の絶妙なバランスがある。「畳目のしづかさにしむ秋雨の音」は「若き日の過誤」を引き出し、「若き日の過誤」は「畳目のしづかさにしむ秋雨の音」にイメージを結ぶ。破綻のない端正な表現の中に深い思索性を感じさせる。

   くろずめる坐禅堂の壁にひつそりと箒が掛かる昔も今も

   水中の豆腐の縁のゆらゆらに一つの別離告げられてをり

   傷負ふものここに来るべし谷の木木ぬけくる秋の日あかるく寂か