古谷円『百の手』(2016年・本阿弥書店)
ペンギンの夢を見たのではなく、「ペンギンに踏まれる感触の夢」を見たという。わたしはペンギンに踏まれたことがないので、「ペンギンに踏まれる感触」といわれても勝手に想像するしかない。誰だってそうだろう。歩く速度や、鋭い爪と水掻きをもつ二本の足や、体の重量を思い浮かべると、冷感や痛覚とともに、何だか体中が濡れて傷だらけになったような気がする。楽しい夢とは思えない。
さまざまに思い描いても、これだという確信にいたらないが、何だかわからないままにも、見ていた夢の感じは伝わってくる。夢には抑圧された意識や関心の高い事がよく現われるそうだが、覚めてから内容を整理しようとすると、矛盾にみちて荒唐無稽で、なかなか言葉にならないものだ。踏む主体を、妙に詳しく、ペンギンだと特定させるのも、そのような夢の不思議さかもしれない。その夢で身に力がみなぎったのは、「ペンギンに踏まれる」外からの力を感受して、自分に輪郭が生じたからだろう。
ふいに頭上にパイプオルガンひびくごと体広げる原子炉模型
寒月に照る雲ながれわが丘はひょっこりひょうたん島の気配す
Nobodyに会ったよと言ったこどもいて夕暮れのひそけきさみしさを知る
『百の手』には、このような歌も収録されている。作者40代の10年間の家族アルバムといった趣の歌集だが、年代記的な事柄の羅列をさけて、ともすると時間の流れに回収されてしまいがちな折々の感覚を、丁寧に粘り強く拾いあげる。対象に向き合う誠実が心にひびく1冊だ。「ペンギンに踏まれる感触」が、わからないままにも感触を伝えるのは、作者の言葉が内実をもっているからだろう。