今井恵子


カナリヤの囀り高し鳥彼れも人わが如く晴を喜ぶ

正岡子規『竹の里歌』(1905年・俳書堂)

 

カナリヤというと、西條八十作詞の童謡「かなりあ」を思い出す。「歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか」という、あれである。子どもの頃、聞く度に、山に捨てられたり、鞭でぶたれたりしそうでとても怖かった。今「月夜の海に浮かべれば」と美しい歌詞をたどっても、何だか悲しい気持ちになるばかりである。そこへいくと、子規のこのカナリヤは、明るく晴れ晴れとして、何と開放的で力強いのだろうと思う。世界が明るくなるではないか。

 

明るさは、第一に「囀り高し」「晴を喜ぶ」の、カナリアの黄色、囀りの美しさ、陽光のさやけさからくること、第二に二句切れの声調の力強いこと、第三に「鳥彼れ」と「人わが」が対立並置され、しかも鳥が主で、「われ」が従として描写されている点によると思われる。

 

カナリヤがほんとうに晴天を喜んでいるのかどうかわからないし、歌全体の主眼は、「われ」が晴れた日の光を喜んでいるのだが、表現はカナリヤを「写生」している。

 

正岡子規は、古今集を否定して写生を提唱したのだが、その写生は、かんたんにいうと、このように、「鳥」と「われ」を対置して認識する目をもつことだった。西條八十の「かなりあ」が人間のこととして鑑賞され、自我の形成や自己の存立に重ねられるのと、対照的だ。

 

昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く

ビードロの籠をつくりて雪つもる白銀の野を行かんとぞ思ふ

 

相対化された自己と、新しさへのあくなき興味が「写生」を支えている。