羞やさしさはこころのはじめ水こえて来たる子の眼のなかの冬蝶

伊藤一彦『月語抄』(1977・国文社)

 

育児中は目先のことに振り回されてしまいがちだが、ちょっと距離をとってみると、子どもの成長過程には人間洞察にとって興味深いことがたくさん潜んでいる。「こころ」は、誰でもよく使う言葉だが、何を指すのかあらためて考えると、分ったような分らないような気持ちになる。日本語シソーラスの「こころ」の項には、「精神」「魂」「考え」「気」「思い」「意」などが並ぶが、そのいずれをも包含してなお十分でない。大きな概念である。

 

ここでは、本能に加えて、人間が人間たるに必要なものを「こころ」と呼んでいるのだろう。自己を一方的に主張していた子どもが、あるとき羞恥心を知った。控えることを覚えたのである。外部の存在への畏敬といえばすこしオーバーか。

 

「水こえて来たる」が「子」にかかるのか、「冬蝶」にかかるのか、ちょっと迷ったが、二句の後の空白が大きいので、以下は一息に読むこととした。つまり「子」にかかると考えた。「冬蝶」は俳句の季語で、俳句に〈たどたどと籬に沿ひて冬の蝶 西山泊雲〉や〈凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ 橋本多佳子〉などがある。酷薄な生の象徴と読める。

 

歌の眼目は「こころのはじめ」が「羞しさ」だというところ。作者の人間観を反映している。外界を知った子どもを見つめる目が温かい。「こころ」の深遠を見る思いがする一首だ。

 

歌集後記に「定型詩短歌が本質的にもつ抒情性に対するアンビバレンツが私のなかにある」とあり、作者の人間観とともに考えさせられる。