ほととぎす霧這ひ歩く大空のつづきの廊の冷たきに聞く

与謝野晶子『白桜集』(1942年・改造社)

 

『白桜集』は与謝野晶子の最後の歌集。遺歌集である。遺歌集は、他の歌集と違って作者の取捨選択がはたらかないのが一般だから、もし、作者が編集していたら洩れてしまったかもしれないと思う作品もある。しかし、そういう歌が悪いというのでもないと思う。

 

この歌は、前回引用した渡辺松男の「手をたれて・・・」の歌と同じ構造をしていることに気づき、面白いと思った。「ほととぎす」を「聞く」という構文に、「霧這ひ歩く大空のつづきの廊の冷たきに」という句が挿入されている。読むときは、初句の後に、大きな休止を入れる。ほととぎすの鳴声を、霧のたちこめる空と一続きに感じられる廊下に立って聞いているのである。初句の後の空白の大きさが素晴らしい。

 

濁流が月見草ほど黄に曇り海の中にも信濃川ある

氷より穴釣りの魚をどり出で光りを放つ山の湖

夕ぐれが既に昨日も一昨日もせしごと海を先づ呑みて寄る

 

風景描写が印象に残る。絵画的ともいえるが、風景の中に作者もいるような気がする。作者が風景に参加している。『みだれ髪』の浪漫性で語られる晶子だが、大きな視野の中に的確にものを捉える眼力や高い美意識、晩年にいたっても自由で豊かな着想こそ、味わうべき資質と思われる。そういえばよく知られる『みだれ髪』の【清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき】【絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき】などにも風景の大きな広がりがあった。