夕ぞらへざくろの花は朱を献ず梅雨神つゆがみのためわがいきのため

 『悲神』雨宮雅子

 万緑の候の紅一点として、古くから愛でられてきた「ざくろの花」の鮮やかな「朱」。初夏のころの湿りをもった「夕ぞら」に咲く花の朱の点描が見えてくるようだ。その鮮やかな朱色をふまえてであろう、「夕ぞら」に「献ず」と歌っている。そしてそこから一気に「梅雨神のためわが生のため」とたたみかけてゆく。「梅雨神」というのは作者の造語だろうか。梅雨という季節を司る神というほどの意にとらえていいのだろう。「献ず」「神」という言葉に、この作者がキリスト者であることを思い起こすが、おそらく「ざくろの花」の「朱」も「主」に通じているのだろう。「ざくろの花」から作者の夕べの祈りへと転回する言葉の流れがみごとである。そこから静謐な心の水位が伝わってくる。ちなみにキリスト教では石榴の実は再生と不死を願うシンボルであるという。一九八〇年刊。

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