黒瀬 珂瀾


風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける

笹井宏之『てんとろり』

初句が「。」で切れているから、「風そして」と続けて読むのではなく、「風」で一旦切るべきなのだろう。まずは、静かな風が吹く情景を思い浮かべればいい。それは夜だ。「数万の夜」というのは、一人の人間が生涯の間で眠る夜の数と考えればいいだろうか。あなたが生きている限り、わたしはひそかに、あなたの夜にシーツをかぶせ続けますよ、という。あなたの眠りを、ただ黙って見守り続けるということかもしれない。

「あなた」とは誰だろう。恋人、家族、友人……作者にとって大切な人かもしれない。その眠りを見守るという優しい心の歌として読んでもいい。だが、この歌の曖昧な記述方法は、「あなた」を誰か一人に固定させる読み方からどこかで身を逸らすところがある。つまり、「あなた」とは、作者が優しさを注ごうとする、生きとし生けるもの、すべての命をさしているようにも思う。

だとすれば「数万の夜」は、ある一人にとっての数万日の夜というよりも、数万の命それぞれにとっての一夜ということにもなる。「わたし」は一人でありつつ、あらゆる世界に遍在するものとして、数万の命それぞれの夜に、いっせいにシーツをかけるのだ。そのとき、初句の「風。」はまたあらたなきらめきを放つ。無限のあなたに無限のわたしがシーツをかけるとき、「風」はあらゆる世界をいっせいに吹き抜ける存在となる。つまり、「風」と「わたし」の優しさが同時に、この世界にあまねく降りかかるのだ。

笹井の歌は、限りない優しさで満ちている。その優しさを注ぐ対象を決して限定することがない、という点でも、その優しさは限りない。「あなた」への歌であり、「すべてのひと」への歌でもある。2009年1月24日、26歳にて逝去。その二年後、第二歌集が刊行された。この世に残された僕たちは、ただ、笹井の限りない優しさに耳を傾ける。