ドアを出づ、―― 秋風の街へ、 ぱつと開けたる巨人の口に飛び入るごとく。

土岐哀果『黄昏に』(1912年)

ドアを出づ、――  / 秋風の街へ/ ぱつと開けたる巨人の口に飛び入るごとく。

本来は上記の/で行替えされ、3行書きの歌になっている。『黄昏に』はローマ字書きの第1歌集『NAKIWARAI』に続く第2歌集で、親しかった石川啄木への献辞が添えられている。啄木の歌と比較されることの多い哀果(本名・善麿)の歌だが、啄木と同様、都市生活者として、労働者としてのやるせなさが滲むものの、その屈託を含んだ「諦念」が『黄昏に』の味わいになっている。

 

  秋の風、/人のことばのはしばしの、気にさはるたび、/口笛をふく。

  この国の男も女も、さもしげに、/黄いろき顔して、/冬をむかへぬ

  手の白き労働者こそ哀しかれ。/国禁の書を、/涙して読めり。
 
  ゆふがたの黒の毛繻子の、/事務服の襞に見いりし、/つかれし心。

  りんてん機、今こそ響け。 /うれしくも、/東京版に、雪のふりいづ。

  夜おそくかへるつとめの、/あぢはひを、/ましろき靄に、かなしめるかな。 

 

社会のなかに生きる自分の心をすくいとり、かなしみを覚えながらも、社会に生きることを続ける。啄木は、もう少し無防備に感情をあふれさせるが、哀果は無防備にはなれない。そこに独特の屈託がある。掲出歌は、屈託がつかみとる奇想ではないか。ドアを出る、すなわち、街へ出る。社会のなかへ入っていく感覚は、あらゆることが自分の思うままにならず、からめとられる感じがするのだろう。なにか、巨人の口にのまれる感じがするのだ、と哀果は言っているのかもしれない。ただし、「のまれる」のではなく、「飛び入る」のである。逡巡や判断を定める間もなく「飛び入る」しかないのであろうが、しかし、「飛び入る」のは自分であることを受け入れているふうだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です