黒瀬 珂瀾


のどを疾み苦しき朝は― 鳥の影 われより低く飛べるを見たり

藤井貞和『うた ゆくりなく夏姿するきみは去り』

 

初句は「のどをやみ」と読むのか。喉が腫れやすいのは季節の変わり目だが、いつでもいいだろう。乾燥した夜に扁桃腺を腫らし、唾を飲み込むのも苦しく、爽快感から程遠い朝、己の目線よりも低く飛ぶ鳥影を見た。雨が近づくとツバメなどが低く飛ぶというが、掲出歌の場合は、何の鳥か解らない「影」が過ったということが重要なのだろう。この鳥影は、苦しい朝の一瞬を突っ切ってゆく、正体不明の黒い点であり、何かを暗示する幻でもあるだろう。

 

「疾風」「疾苦」とあるように、「疾」には単に「病」だけでなく、「激しい」「苦しい」の意も含む。〈われ〉が喉に抱えるのは単なる痛みではなく、何かの苦しみに対する激情かもしれない。それが喉に留まっているとは、声に出せない、つまり表に出せないということか。どんな感情かは解らないが、身もだえする苦しみをぐっと喉の奥で堪える。ここで「朝は― 」のダッシュと一字アケにより感情の高揚が強調されている点も、そんな朝を思わせる一因かもしれない。

 

その余韻を断ち切るように「鳥の影」が唐突に出現する。それはまるで、鳥影が余りにも素早く視界を過ぎ去ったことを表しているかのようだ。本来は天高く翔けゆく鳥が、地上すれすれを飛ぶ。やはりここでは「影」という一字が効いている。地上の〈われ〉と同じ低さを素早く滑りゆく影には、自然と忍苦のイメージが宿る。一首には抑圧感があふれつつ、しかしながら、一瞬の鳥影を追わずにいられない〈われ〉のかそかな憧憬がある。本当に鳥を見たのだろうか。

 

  静まりし― 地平を分けて、あれいずる朝の光は― ふるえやまずも

  薄明のあけがたにして、ありへつる霊よ 遠流(おんる)の暗きを怖れ

  手のひらに水滴の落ち、たわやすく溢れんとして、遽(にわ)かに悲し

  シベリアの雁は― はるばる来にしかど、撃たれぬるかなや。あけがたの闇に

 

掲出歌は「幽光と敗北」という一連の冒頭の作。同連の他の作も挙げる。『蟹行―短歌型詩群集』(1964年)という冊子に納めた作品だそうだ。時代特有の思想の気配が色濃く、その文体には釈迢空の影響がある。詩人である藤井がこれまでに為した〈うた〉を一冊に纏める気になったのは、「日常性が欲しいということかもしれない」と書いている。「時間は復興する」が、復興しえない部分の切り捨てがじきに始まる。そのときに「真にあらがうためのことば」が立ってこなければならない、とも藤井は書く。それが、一瞬の鳥の影を〈うたう〉ことばなのだろうか。