朝床にきく風音のゆたかなり鯉幟ながき尾をふりあぐる

                                                              造酒廣秋『秋花冬月』(2011年)

 

 読後、五月の空に雄大に泳ぐ鯉幟のイメージが思い浮かぶが、「朝床に」とある通り作中主体はまだ春の寝床にいるのである。おそらく朝遅くまで眠りのなかにいたのだろう。目覚めた主体はそのまま布団のなかで、外の風の音を聞いている。ゆたかな風の音を聞いているうちに、鯉幟が雄大に泳ぐ様子が頭に浮かんでくる。五月のひかりのなか、風をはらんで身をゆるやかに捩りながら泳ぐ鯉幟。それは、現実か夢の中か。五月ののどけき風景が読者の中に再現されるのである。

 

 「見せ消ち」という言葉があるが、この歌は「朝床に」と断りつつ下の句で風景を描いてゆくのだからいわば「消し見せ」とでもいうことになろうか。眼前の風景を記述しているのではないからこそ、広がる景は理想的で完璧なものとなりゆたかに広がってゆく。

 

 『秋花冬月』は著者の二十年ぶりの第三歌集。教員としての生活や家族との日常を描きつつも、その作風はどこか高踏的で、この世ならぬものへのあこがれやこの世の外からこの世を見つめるような視線があり、独自の世界を作っている。

 

大根をぬきたる穴に日がとどきなにかこぼれてしまふこころは

チョコレートの銀紙をかむ歯ざはりのなずきにいたる寒さがありぬ

今日もまた五位と白鷺鴨川にゑさ場わかちて漁(すなどり)ゐたり

 

 一首目、大根を抜いた穴が地面にそのまま残っている。「なにかこぼれてしまう」は日がこぼれてしまうと、こころがこぼれてしまうの両方にかかっているようであり、風景と一体化したこころのかなしみがある。二首目は上の句が「なずき」にかかる序のようになっているのだろうか(あるいは第四句までが「寒さ」にかかる序だろうか)。読者はその巧みさを楽しみ、しかし寒さのなかの孤独を感じることになる。三首目のような京都を歌う歌も散見され興味深い。単に餌場が分れているというだけではなく、五位鷺と白鷺の貴賎の差のようなものも連想されよう。

 

風呂桶にかくるる吾子の背丈なり棄つるは我か汝がはやきか

つは蕗のみどりあをあをよみがへり母が母たることをやめざる

竹むらをいでてつめたき朝の風出奔のバスいまだ来たらず

テニススクールに行く少年がラケットを佐々木小次郎のやうに背に負ふ

 

 家族を歌う作品も独特だ。家族は血のつながる肉親であるけれど、この世ですれ違う人間でもある。最後の歌、「佐々木小次郎のやうに」というユーモアにあふれつつも、見えるのは少年の背中ばかりでせつない。

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