ドアを出(い)ず、――/秋風の街へ、/ぱつと開けたる巨人の口に飛び入るごとく。

                                     土岐善麿『黄昏に』(1912年)

 

 一読、すうっと意味も良く分かり何だか楽しくなる歌だ。三行分ち書きにされているが、ドアを開けた→秋風の街へと一歩を踏み出した→それは巨人の口に飛び入るような感覚だった、というように改行の度に場面が展開されており、スピード感をもって読むことができる。意味的に一首を上下に行き来して解釈をするような必要はなく、助詞や助動詞・句と句の因果の付け方にも凝ってはいない。口語の軽やかさとともに一気に読み下すことができる歌と言えよう。それでいて「巨人の口に飛び入るごとく」という直感的な把握は大胆であり、百年後の私たちにもずいと響く。まずあんぐりと口を開けた巨人の図が見えて、そこに飛びこんでゆく小人のような主体の姿が頭に浮かぶ。

 

 

 秋風の街と巨人の口、この二つはそれまでに結びつけられたことのなかった事柄だったのではないか。秋風の街と巨人の口に類似性を感じるという直感は、スピード感のある口語文体によって直球で読者に投げつけられる。そこには秋の風を感じる時の、様式のようなものは存在しない。今まで別カテゴリーにあった二つの事柄が、二物衝撃的に一首の内で軽やかに結びつけられるとき、そこにはまぎれもなく「個人」の感性が析出されている。古典的な季節感とは完全に切断された、「個人」的な秋の感じ方だ。そして、個人の直感を歌という歌に盛り込むとき、善麿にはこの文体がぜひとも必要だったのではないだろうか。現代の目からすると素朴に軽く読まれた歌のように思われるが、自然主義の波をくぐった短歌革新の第二世代として、「個人」の感じ方を「そのまま」定型に乗せてゆくために、相当意識的に開発した文体だったのだろう。何だかたまらなく新しい。

 

わが体が、のうつと高く

伸びるごとくおもはれて、

ふいと佇みし。

 

わが友が、

くつついて歩く、秋風の

 ふわりと広き長き外套。

 

 「のうっと高く」というオノマトペはただただ楽しい。「ふわりと広き長き外套」は友そのものより存在感があり面白い。一首の「感じるポイント」は現代の私たちとはほとんど差がない。現代短歌は、かなりの部分善麿たちの時代の歌の時代のパラダイムの下にあるのではないか、そんなことさえ時々思ったりする。

 

*引用では省いたが『黄昏に』は総ルビの歌集である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です