駒田晶子『銀河の水』(2008年)
何か原因があって、もの思いをしたり逡巡している場面だろうか。自分がちいさい虫になったかのように、冷や奴の角をめぐっている。冷や奴は白くてどの角も同じようであり、曲がっても曲がっても同じような風景が広がって、なかなか目的地につけない。豆腐のふわふわとした辺上を主体はいつまでも進んでゆくばかりである。そういえば、目的地とは何処だったのか、そもそもそんなものはなかったんじゃないか。堂々巡りのうちに日が暮れてゆく。ふつう「堂々めぐり」というような慣用表現は歌の力を弱めることが多いが、この作では例外的に生きているように思う。今日は堂々巡りだったなあーと主体の呟く姿が歌の後ろに見えるようだ。
足一本足りないかぶと虫ひとり薄いすいかをおずおずと見る
春の犬眠そうに欠伸ひとつしてどろりと春に溶けてしまえり
夕立に喜ぶからだ自転車を漕ぎながら前へ前へ濡れゆく
餌をまけば浮かびあがりてくる鯉のぱぐらんぱぐらん人恋うこころ
アパートの外階段は遮音ゴムの嵌められ春の低き音階
主体は足が一本足りないかぶと虫に注目する。かぶと虫と「われ」を重ね合わせるような、過剰な感情移入はしないが、それに気付いたときの「あっ」という感覚とこころの揺れはまぎれもない。薄いすいかをおずおずと見る視点はかぶと虫でありつつ、主体のものでもある。「かぶと虫ひとり」の「ひとり」はユーモアだろうか?五首目ではアパートの外階段の低い音を感じ取る。ここであまりプライベートな情報を持ち出すのは良くないかも知れないが、音楽を専攻していたという著者は音の高低に敏感なのだろう。まず聴覚から他の場所よりも低い階段の音に気付き、そういえば外階段には遮音ゴムがついていたっけというように、思考が回る。歌集では、誰もが見たり聞いたりしたことのある事柄を、特殊な感覚や比喩ではなくさっと掬いあげたような小品が多いという印象だが、それは俗へと傾くことはない。不思議でもあり作品の力であると思った。
香水も口紅もつけぬ母の上を秋のひかりはゆっくりまたぐ
ベッド上の母のため配給さるる玄米茶は秋の焦げたるかおり
おとうとが喪服持たざる心配を息ぎれしつつ母は言うなり
今日空がきれいだったと言う母の蒼き孤独をわれは畏るる
母の棺運びだすとき踏まれたる水仙のみどり真っすぐに伸ぶ
さくら道明寺奥歯で噛みながらこれからも逢う死を思いおり
母の死をめぐる一連は、強く印象に残った。化粧をしなくなった母の上を、またぐように射してくる秋のひかり。「ゆっくりまたぐ」には、ひかりの角度が微妙に変化するまでの時間の推移があり、母と共有している時間の静けさがある。なにも起こらなかったけれど大切な時間がそこで流れて行ったようなのである。「またぐ」という動詞の選択も良い。弟が喪服を持たないことを心配している母の姿、母の蒼き孤独に気付いた時の主体の畏れも痛切だ。
水苔を食むようにやわらかく口を動かす人を産みしはわれか
水をくぐりぬけたばかりのみどりごは棲みにくそうにひとつくしゃみを
ベランダで髪切ってやる花びらより少し重たきひかりがおちる
島めぐりをカヤックでするという夫の老後の夢はひとり乗りらし
母と祖父の死ののちに生まれたわが子。「水苔を食むように」という比喩は独自であり、リアルな感じがある。家族の歌ばかりの歌集ではないが、重要なポイントを占めている。ファミリーの歴史が歌に刻まれてゆく。
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今日も同級生歌人の歌集からの引用になりました。