棚木 恒寿


ともすればかろきねたみのきざし来る日かなかなしくものなど縫はむ

岡本かの子『かろきねたみ』(1912年)

「かろきねたみ」は恋に関するものであろう。「ともすれば」という意表をつく歌いだしは、最初に一首を謎の方に誘う。「ともすれば」はふつう文頭には来ない言葉だろう。「冬は寒い。ともすれば出不精になりがちである」のように何らかの文章の流れの中で使われることが多いはずだ。そういう「ともすれば」が文頭に来ており、読者はいきなり何かが始まっているような気分になる。ともすれば軽い妬みが心に湧くような一日、どのような経緯があったかは語られないが、とにかくそういう感情の一日があるのである。ことの詳細は分からないまま、「ねたみ」という感情が手渡される。そんな日は、一日ものなど縫おうというのである。下の句においても、「ねたみ」の原因の詳細は語られない。そこにあるのは文字で書かれた「ねたみ」という感情だけなのである。恋の内実は語られず、どちらかというとリアリティーや手触りはすくない歌かもしれない。その一方で「ともすれば」という口語による歌い出しとそのリズムは心に残り、「妬み」という言葉の強さとともに忘れられない一首である。

『かろきねたみ』は岡本かの子の第一歌集。たった七十首からなる歌集で、一冊すべてが相聞歌からなる歌集と言っていいだろう。実物を見たことはないが、写真で見る限り和綴じ本のような体裁で、自筆木版刷りだという。青鞜社発行というのも歌集としては珍しい。スタイルだけではなく、歌自体もなかなかユニークだ。

力など望まで弱く美しく生まれしまゝの男にてあれ

捨てむなど邪おもふ時に君いそいそと来ぬなど捨て得むや

生へ際のすこし薄きもこのひとの優しさ見えてうれしかりけり

折々は君を離れてたそがれの静けさなども味はいて見む

今時の言葉を使うと「上から目線」の恋愛といっても良いだろうか。一首目はその典型で、要は自分好みの(とあえて言うが)弱い男のままでいて欲しいということである。「ちからなど望まで弱く美しく」ということを望む美意識は面白いともいえるが、なんだかちょっと怖い感じもある。二首目では、あの男を捨てようと邪なことを思っている時に、君がいそいそとやって来た、ああ、どうして捨てることができようかといのである。恋愛の選択権が相手にはなく、自分にだけあるような感じである。「上から目線」の恋愛というイメージが膨らむ部分だ。君との恋の駆け引きはあまりない。君が振り向いてくれるかどうか弱い私が思い悩むというような、シーンはないのである。言わば、心弱りしない恋愛である。やや大雑把な言い方になるが、個人の心の弱さが見えて来ないということでは、同時代に影響力のあった自然主義とは一線を画していると言えようか。むろん、だからといって「かろきねたみ」の価値が低いというわけではない。

ちらちらと君が面に酔ひの色見えそむる頃かはほりのとぶ

この何とも言えぬ雰囲気や情緒は、読者を作品世界へと誘う。二人の逢瀬、君の顔にちらちらと酔いの気配が見え始めた。「ちらちら」というオノマトペは出色で、第一義的には酔いの色がちらちらという事であろうが、君の顔が灯でちらちらと照らされているような雰囲気もある。やがて日が暮れて来て、かはほり(=こうもり)が飛んでいるのが見える。君との逢瀬に満たされながらも、どこかさびしい光景、情緒が提示される。若干江戸趣味な所もあるかも知れない。独特の雰囲気がただよう。

恋をすこし離れた次のような歌もいい。

菊の花冷たくふれぬめづらしく素顔(すがほ)となりし朝の我頬に

一杯の水をふくめば天地の自由を得たる心地こそすれ

「水をふくめば天地の自由を得たる」などはすがすがしさがあり、心が晴れるような気がする。濃密な恋の合い間に見える素顔だからだろうか。恋の一連にあるからこそ、すがすがしさが身に沁みるとも言えよう。そういう意味ではこの歌も、相聞歌集にしっかりと組み込まれた一首である。