石川 美南


ムービングウォークの終りに溜まりたるはるのはなびら踏み越えてゆく

光森裕樹『鈴を産むひばり』(2010)

 

桜シリーズ第5弾。

 

一昨日取り上げた盛田志保子の歌が、桜の花びらに背中を押してもらう歌だとすれば、こちらは、意識的に「踏み越えて」いく歌。

ムービングウォーク(動く歩道)は、ただ乗っているだけで前へ前へと連れて行ってくれるが、「その先」へと踏み出すためには自分自身の足を動かす必要がある。

「はるのはなびら踏み越えて」というハ行の頭韻、また「はるのはなびら」のひらがな表記には、散る桜の美しさをゆったりと味わっているような風情が感じられる(ムービングウォークが設置されているような都会にも、桜の花びらはどこからか舞い込んでくるのだ)。にもかかわらず、語り手は、それをあえて非情に踏んでいく。

さりげない春の一場面を描写しているように見せかけて、前に進む決意に満ちた一首なのだと思う。

 

この歌にも表れている通り、光森裕樹の歌には、ずぶずぶに感傷的な部分と、感傷を断ち切ろうとする部分とが混在している。多くの人に愛されるような抒情性にうっとりしながら読み進めていると、ひやっとするほどのクールさや、エキセントリックなまでの生真面目さにぶつかって驚く。そういう多面性が、一風変わった魅力になっている。

 

  削ぐやうに雪を払へり信頼を得てしまひたるうしろめたさに

  使ひ道なきものとしてビル双つ写る素材を選り分けてをり

  乾びたるベンチに思ふものごころつくまで誰が吾なりしかと

 

1首目は、「削ぐやうに雪を払」うという表現の美しさと、その行為に込められた強烈な自意識のギャップが印象的。

2首目は、9.11以後の世界を極めて非情に切り取っている。「選り分ける」作業が業務の一部に組み込まれているらしいこと、それをさりげない文体で報告していることに、ぎょっとする(しかし、このように流れていかざるを得ないのが日常というものではある)。

3首目、「物心つく」という言葉から「物心つく前」の「吾」を想像しているのだが、妙な理屈っぽさと真面目さが、ある種の(茂吉的な?)ユーモアとして機能している。