寝てきけば春夜(しゆんや)のむせび泣くごとしスレート屋根に月の光れる

                        北原白秋『桐の花』(1913年)

 

 春の夜、主体は布団のなかで息を凝らしているのだろうか。どこか遠くで春夜がむせび泣くような音がするという。具体的にどのような音がしたのかは分からないといえば分からないが、この擬人化はどこか魅力的だ。春になってさまざまなものが動いたり変化したりするときの音、あるいは具体的な音がなくても春という季節のなかで何物かが生動する感じが、この擬人化にはあるように思う。「むせび泣くごとし」だから、それには春になっての希望ばかりではなく、切ない感じもあるのだろう。いずれにせよ、そのような春の夜のある雰囲気とその推移を感じ取る、白秋独特の繊細な感覚があると思う。下の句の「スレート屋根に月の光れる」も確かな風景の選択だ。波打つ瓦屋根ではなく、すうっと広がるスレート屋根が月の光をはじいている。その硬質で静謐な感じが、上の句の神経の細かさにふさわしい。

 「春夜のむせび泣くごとし」は夜という時間の擬人化という言葉の面白さから出て来た表現かもしれないが、そこに主体のややセンチメンタルな感性が重なってゆき、その繊細さはまぎれもない。しばしば引用される文章であるが、同歌集中のエッセイ「桐の花とカステラ」の「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精(エツキス)である。古いけれども棄てがたい、その完成した美くしい形は東洋人の二千年来の悲哀のさまざまな追憶(おもひで)に依てたとへがたない悲しい光沢をつけられてゐる」などは、彼の端的な歌論なのであろう。微細なところの感情の揺れや感覚を記述することに白秋は非常に長けており、加えてその繊細さを自己肯定し客体化してゆくように、私にはしばしば思われる。

 

薄暮(たそがれ)の水路(すいろ)に似たる心ありやはらかき夢のひとりながるる

 

 この比喩も出色である。辺りは暗くなるころ、水路の流れはよく見えなくなってゆくのだろう。薄暗い中では私たちは、水の流れを視覚だけではなく聴覚を交えて感知しようとするのではないか。そういう視覚以外の五感を動員して研ぎ澄ます感じが、上の句にはあると思う。ここでも主体の繊細な神経があり、ゆえに「やはらかき夢」の流れてゆくのにひとり気付くのである。

 

白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬(かはせ)に

 

  白い犬が水に飛び入る様子を「うつくしさ」ととらえる感性は、繊細であるとともにどこか新しく、余裕のようなものも感じられる。やや深読みを許してもらうと、水に飛び込む犬の白は鮮やか過ぎて目に沁みるが、そのような白をもつ犬はそこここをうろつく畜生としての犬ではなく、ペットとしてのそれではないだろうか。やや愛玩めいた、犬の捉え方だと言えるであろう。都会の青年の感性の新しさが感じられるように思う。

 

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この稿、4月21日に更新したつもりが私のミスで4月2日に入ってしまっていました。日付を変えて再更新します。もうしわけありませんでした。

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