冬波のしぶきのあとの乾きたる眼鏡をはずし卓上に置く

岡部桂一郎 『一点鐘』(2002年)

 

吉野裕之が1月7日の本欄に書いているとおり、作者は、昨2012年晩秋(11月28日)に97歳で死去した。生身の歌人に接する機会のないまま岡部短歌を愛読してきた私が、全作品中いちばん好きな一首を問われたら挙げたいのがこの歌だ。

 

歌意は、冬の海の波しぶきが掛かった跡の乾く眼鏡を、<わたし>は外してテーブルの上に置く、だろう。一読明快だ。ふつうの言葉をふつうにつなげただけ、のように見えるこの歌のどこがそんなにいいのか。岡部ワールドのなみいる秀歌をさしおいて、何が私をひきつけるのか。

 

見立てや比喩や飛躍で読ませる歌ではない。そういう、「ここが眼目」といえる歌ではない。その意味では明快でない。むしろ「この比喩が鋭い」「この飛躍が凡でない」と指摘できる歌の方がよほど単純明快だ。

 

一行の歌を、初句から結句まで眼球を行ったり来たりさせながら五分くらい眺めていると、ことばのつながりが順当であることに気づく。一つの語が、次の語に、順々にかかっていく。「冬波の」は「しぶきの」にかかり、「しぶきの」は「あとの」にかかり、「あとの」は「乾きたる」にかかり、以下、「乾きたる」は「眼鏡を」に、「眼鏡を」は「はずし」にかかる。結句でそれを「卓上に置く」と着地する。初句から読みくだすままに起承転結が展開し、眼前に景が立ちあがってくる。無用な倒置や挿入がない。ことばにたるみがない。気持ちがいい。

 

「冬波」は、歳時記によれば冬の季語だ。季語はあくまで俳句世界の決まりごとなので、不用意に短歌へ持ちこむとぎくしゃくするが、ここでは言葉がよく働いている。岡部作品には、季語をうまく働かせたものが少なくない。そして働くといえば、三句の「乾きたる」だ。仮にこれが「残りたる」だったらどうか。

 

冬波のしぶきのあとの残りたる眼鏡をはずし卓上に置く (改作)

 

歌の緊迫感が落ちる。間が抜ける。「残る」にはどこか湿ったニュアンスが漂う。だが「乾く」は文字通りドライだ。それでいて、「涙が乾く」という慣用表現があるため、「涙」をたぐりよせる。むろん歌は、涙のような飛沫が乾くなどとは一言もいっていない。しかし読み手は、無意識の底で「涙」と「乾く」が響きあうのを、自覚するかどうかは別として止めることができないだろう。「乾く」に熟達の技を感じる。

 

冬の海辺を散歩してきた<わたし>が、自分の住まいもしくは帰路途上の珈琲店かどこかで、波の飛沫のかかった眼鏡をはずし、テーブルに置く。飛沫がかかるほど冬の海は波が荒く、飛沫がかかるほど水際ぎりぎりを歩く<わたし>だった。

ハードボイルド風味ただよう一首である。

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