梅咲いて梅散ってたちまち終わりにき風ひかる二月われのきさらぎ

久々湊盈子『風羅集』(2012年)

 

今日は2月最後の日。こないだ年を越えたと思ったらもう2月の終わりだね、という台詞が日本のあちこちで交される日だ。

 

今年の梅は寒さで開花が遅いようだが、歌の中ではすでに咲き終わっている。梅が咲き、梅が散り、光のなかを風が吹く<わたし>の2月がたちまち終わってしまった。「われのきさらぎ」は、2月生まれの<わたし>の如月ということだろう。あるいは、単に自分の好きな如月、何らかの出来事があって思い入れのある如月、かもしれない。この歌からは一つに確定できない。だが歌集のなかの別の場所に<六十三回めの誕生日きてつつがなくきさらぎ十日の梅が咲いぬ>(「咲」に「わら」のルビ)が置かれており、二つの歌を合わせて読めば意味が確定する。ことばの読みをめぐり「たぶんこういうことだろう。違うかもしれないが」と読者を宙ぶらりんな所に放置しない。きちんとした構成意識を持つ作者だ。

 

「われのきさらぎ」の意味は、読み手の想像にまかせればよいとする考えもあるだろう。それも一つの行き方だ。だが、歌の基本は「限定」である。「誕生月かもしれないし、単に好きな月かもしれないし、何かがあった月かもしれない」一首よりも、「誕生月の」一首の方が、読み手に訴える力を持つ。

 

この歌の心は、時の流れのはやさよ、という古来から変わらぬ嘆きだが、作者はあくまで明るく詠う。嘆き節にしない。「梅咲いて梅散って」と弾んだ調子で入り、5・9・5・8・7音の破調にして韻律を思いきりうねらせる。下の句のたたみかける調子と相まって、一首全体がさばさばしている。この歌に限らず、嘆き節から遠く離れた場所に立っているのが久々湊盈子だ。

 

「梅」「風ひかる」「二月」「きさらぎ」は、みな歳時記の季語である。一作品につき原則として一つの季語しか使えない俳句の作り手から見ると、この季語の重なりは「気持ちが悪い」かもしれない。しかし、短歌は俳句ではないので、これでよいのである。俳句のルールを適用して短歌を読むと、往々にしてうまく享受できない。

 

ところで、今日は旧暦の1月19日だ。旧暦の上では「きさらぎ」は終わるどころかまだ始まってもいない。「きさらぎ」が始まるのは今から半月後、太陽暦の3月12日である。もともと「きさらぎ」は旧暦2月の別名だった。辞書には「陰暦二月の別称。転用して、太陽暦の二月にもいう」とあるが、「陰暦2月の異称」とだけ記す辞書もある。そのせいかどうか、太陽暦の二月は「きさらぎ」ではない、と言う人は言う。雨水にみちる太陽暦の六月を、水の無い月「水無月」と呼ぶ不可解さを思えば説得されかけるが、一般社会ではとうに太陽暦の2月と如月は同義に使われている。私の部屋の日めくりにも、「2月」と「如月」は並んで印刷されている。本来の意味から変化してゆくもの、それがことばだ。とはいえ、一つの歌のなかに「二月」と「きさらぎ」を同居させない、という方針を採用するのは実作者それぞれの自由である。

 

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