窮屈な機内に足を組み替へるやうにゆつくり話題を変へむ

阪森郁代『パピルス』(2006年)

 

比喩は、2つのもの/ことが出会うこと。そして、時間/空間を越えていくこと。それは大きな喜びである。

「最近になって歌を作ることが、妙に愉(たの)しくなってきました。愉しいと言っても、どんどん歌ができるというわけではありませんが、実作の場面で、思いがけない方向から連鎖反応を起こしたように、働きかけてくるからです。言葉の挑発(心の挑発でもあるわけですが)に乗らないよう、そこは自問と自制で応じるのですが、言葉と対(む)き合うこの不思議な時間に身を置くことの二次的なものとして、歌がここにあるようにも思えます」。歌集『パピルス』の「あとがき」で、阪森郁代はこう記す。

「思いがけない方向から連鎖反応を起こしたように、働きかけてくる」。それは私たちも経験する。私たちの身体とことばが、そしてどことはいえないある場所とが響き合うことによって作品は生まれる。短歌とは、比喩の別名なのかもしれない。

 

窮屈な機内に足を組み替へるやうにゆつくり話題を変へむ

 

飛行機は狭い。いや、広いのだけれど、私が座っているここはとても狭い。足を組み替えるのもなかなか大変だ。狭いだけではない。飛行機の座席に身を置いていると、肉体的にも精神的にもいろいろストレスが掛かる。けっして心地よくはない。

「…へるやうにゆつくり…」という旧かなによるかな表記が、結節点をもやっとさせながら、しかし重さのある比喩を読者にずっしりと届ける。「話題を変へむ」。ここには確かな意志がある。

 

月を背に立てば次第に見えてくる古墳のなかの王の顔つき

みづの紺、そらの濃紺、それらさへ不安の声を洩らすときあり

まだ何か足りないのだらうさつきから見えない腕が急き立ててくる

空が棲処(すみか)といふはぢらひにつぶら実を食(は)みつくすまで鳥のひと群

びつしりと種のひまはり歳月はあるとき空にうなだれてをり

おじぎして人は去りたりヨーグルトその効能をほれぼれと言ひ

うつぶせのままなる熟睡(うまい)手の届く距離にきのふのわたくしがゐる

 

『パピルス』からさらに引いた。「(…)/その技巧の冴えはしばしば/私を嫉視せしめた。/人はこの端麗な詩の森を/さまよつてしばし/時を忘れるがよい」。岡井隆の帯文が、素敵だ。