吊られあるわがオーバーの若き日の父立つに似ていきどほろしも

杜澤光一郎『群青の影』(2008年)

オーバーはオーバーコートの略。オーバーもコートも訳語は、外套、だけれど、オーバーというと、より厚手のものを思い浮かべる。衣服は吊られてあっても、なんとなく着ている人の存在を感じさせる。厚手の、ちょっと重たそうなオーバーの場合はことさらだ。

吊られているのは自分のオーバーなのに、まるで若い頃の父親が立っているようだ、という。ちょっといかめしい感じのオーバーなのだろう。言い換えれば、つまり、主人公は自分自身のなかに、自分の父親とかさなるものを見てとったのだ。そしてそれが、憤ろしい。

息子と父、娘と母、はライヴァルだ。しかも、父や母の側には、愛情と同時に近親憎悪もあるだろう。母対娘の関係は、神経戦の側面が大きいが、父対息子の関係には、肉弾戦、とまではいかないにしろ、体罰が介在することが多い。少なくとも、かつては多かった。ある程度成長したときに、攻めに転ずるか、逃げをきめこむか、折り合いをつけるか、は息子の側の性格によるが、父親の理不尽な期待や規制との葛藤は、すべての息子たちが背負い込んでいたものだ。昭和の父子関係においては、とくにそうであった。

連作によると、作者は父親の暴力に泣きもせずに耐えていたという。意地になって耐える息子に、自分に似た性格をみて、父親は尚更に嫌悪をつのらせたのではないか、と作者は回想する。痛ましいことだ。作者は教育者として責任のある役職を務めてきた。おそらく暴力をふるったりはしまいが、自身のなかにかつての父親の片鱗をみて、自分を憎む気持ちになる。かつて、父親が、その息子のなかに、自身をみて憎んでいたように。