「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

俵万智『サラダ記念日』(1987年)

 

1987年、歌集『サラダ記念日』は、すべての出版物の中でベストセラー第一位となった。発行部数の280万部は、500部前後を刷り部数の常態とする歌集出版において、空前絶後の数字である。この歌集の出現は、短歌界の事件を越える社会現象だった。また、俵万智が現れなかった現代短歌というものも、いまや考えられない。

 

〈「この味が/いいね」と君が/言ったから/七月六日は/サラダ記念日〉と5・7・5・8・7音に切って、一首三十二音。いままで〈わたし〉は君にいろいろな種類のサラダを作ってきたが、今日の一皿を君が「いいね」といったので、これから君に作るサラダはこのレシピに決めた。その記念に、今日七月六日を「サラダ記念日」と呼ぶことにしよう。

 

現代短歌としては日本人に一番知られているかもしれないこの歌について、これまで色々な人が色々なことを語ってきた。ここでは、当時の私すなわち「短歌のことは何も知らないが週に一度図書館へ行く程度は小説やノンフィクションの本を読む三十代の働く女性」がどのように感じたかを、一つの実例として報告したい。

 

「私作る人、僕食べる人」の再来か。これが第一印象である。十年以上前に終わった話が、何だってまたぞろ復活するのだろう?

1975年、ハウス食品は「私作る人、僕食べる人」という会話を使った即席ラーメンのテレビ・コマーシャルを作り、消費者から「男女の役割分担意識を固定する」という抗議を受けて放送を取りやめた。抗議内容については、「そんなことに目くじらを立てなくても」という意見もあったが、「そんなこと」に目くじらを立てないでいるうちに、子供たちが小学校の教科書で「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と楽しく唱和し、軍国少年少女に育っていったのは歴史の示すところだ。一見何ということない、日々のことばが、潜在意識に浸透してゆくのである。

 

サラダ記念日の一首がいっていることは、「私作る人、僕食べる人」と同じだと当時の私は感じた。短歌を知らない者にとって、五七五七七という短詩形が現代に生き、作られているということ自体は、新鮮な驚きだった。だが語られる内容にはついていけない。昭和の始めに戻ったような、なんとも古臭い男女観。ちょっと待って、といいたくなる。あなた本気でこういってるの? いや、作者がこういう歌を作るのはいい。それは表現の自由であり、作家個人の問題だ。私が受け入れ難かったのは、歌集がベストセラーであること、つまり日本人の多くがこの価値観をよしとしたという、その事実だった。私がこれから生きていくのは、こういう人たちが多数派である社会なのか。少しばかり大げさにいえば、目の前が真っ暗になった。

 

砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている

午後四時に八百屋の前で献立を考えているような幸せ

泣き顔を鏡に映し確かめる いつもきれいでいろと言われて

 

読むほどに気が滅入ってくる一冊に、最後まで目を通したのは、ひとえに社会現象のお勉強としてであった。読後すみやかに本を図書館へ返したのはいうまでもない。

 

ところで、さきほどこの歌について「現代短歌としては日本人に一番知られているかもしれない」と書いた。どうだろう。俵作品では〈「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの〉の方が知られているのか。あるいは、他の作者の歌で、また「現代短歌」の「現代」を取れば、短歌に無関心な一般の日本人に、もっと知られている一首はあるだろうか。

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