野を奔るけものの肉を食むゆゑにいざべる長き赤き爪もつ

水原紫苑『びあんか』(1989年)

*「奔」に「はし」のルビ、「いざべる」に「、、、、」の傍点

 

草食人種の立場から肉食人種のパワフルさを述べた歌、と読む。肉食びとの国で彼らと勉学なり仕事なり遊びなりを共に行ったことのある人は、一読して膝を打つだろう。私は打った。その昔欧米各地でスカイダイビングを行った当方のささやかな経験からいうと、肉食の輩と草食の輩は、土台から別ものである。何事かを為しとげようというときの、彼らの底なしの強靭さ、しつこさ執念深さ。一首は、「長き赤き爪」によって、彼らの生態を形象化している。ああ、彼らってほんとにこうだ。

 

〈野を奔る/けものの肉を/食むゆゑに/いざべる長き/赤き爪もつ〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。草原を走る獣の肉を食べるので、イザベルには長くて赤い爪がある、と歌はいう。「野を奔るけもの」とは何か。「けもの」だから、鶏や七面鳥ではない。「奔る」だから、牛や豚のイメージでもない。虎や豹は「奔る」が、あまり食卓にはのぼらない。となると、鹿、馬、カンガルーあたりだろうか。

 

四句の人名「いざべる」の平仮名表記は、歌集タイトル「びあんか」とひびき合う。冒頭に掲げた表記ではよくわからないが、印刷された紙の上では、傍点「、、、、」が目立つ。黒い水滴の形に膨らんだ「、」が、平仮名「いざべる」の横に四つ張りついているさまは、じっと見ているとまがまがしい感じさえ覚えてきて、肉食人種の生態を視覚的にあらわしているのかとも思える。イザベルは、ロマンス語系の女性名だ。Isabelとも綴り、Isabelleとも綴る。「いざべる」はどちらの綴りだろう。そうえいえば、小学生の頃読んだ『赤毛のアン』では、自分の名前を紹介するアンが「最後にeのつく方のアンよ」という旨を必ずいい添えていた。英語を知らない小学生は意味もわからず、「最後にeがつく」名前はとにかく素敵なのだと信じていた。この「いざべる」は「eがつく」方だろうか。こんなことを立ちどまって想像してみるのも、短歌を読む楽しみである。歌の実景としては、赤い爪の白人女性が、鹿肉のステーキか何かをナイフとフォークで食べている場面を思い浮かべればよいだろう。

 

「長き赤き」は、「長く赤き」とする手もあった。形容詞を重ねるとき、「~き~き」「~く~き」のどちらで行くかは、作り手が常に直面する問題だ。ここでは、肉食人種のパワーを表わすために、鋭いイ音をひびかせる必要があったが、一首全体のバランスと作り手の好みにより、例はつぎのようにさまざまだ。

 

薄く濃き野べの緑の若草に跡までみゆる雪のむら消え  宮内卿『新古今和歌集』

濃き淡き霧のまにまにすこしづつ湖面を移る鴨の陣見ゆ 高野公彦『地中銀河』

*「陣」に「ぢん」のルビ

 

また、「いざべる」が「爪をもつ」という下句の構文は、上句「けもの」とのつながりにより、「いざべる」自身が野を奔るけものであるような錯覚をたぐりよせる。錯覚? いや、もしかしたら「いざべる」は実は雌の豹であって、仕留めた牛か何かをその長い爪で押さえつけ、いまや食いちぎろうとしているところかもしれない。

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