学舎より眩暈(めまひ)をもちて見下ろせる冷泉家の庭つつじの火の手

林 和清『ゆるがるれ』(1991年)

 

淡雪にいたくいづもるわが家近く御所というふふかきふかき闇あり

はや花に飽きて来てみる野宮のおく竹群が秋を身ごもる

夏百日 五体の軋む思ひしてある日煙のごときわが影

マンションのわが北枕その遥か先、満州がどつぷりとある

朝刊にて知る火事跡に雨降るを車窓より見て茨木市過ぐ

 

『ゆるがるれ』が上梓されたのは1991年。林和清も私も20代だった。林にはじめて会ったのは、この一冊が上梓されたすぐ後くらいだっただろうか。場所は東京・銀座と思うが、記憶違いかもしれない。私の『空間和音』もこの年に上梓された。同じ年に歌集をまとめた同世代の作家に会えたことは、とてもうれしいことだった。

巻頭の一連「未来歳時記」から引いた。当時、私はこの一連にとても感動したのだった。いま読み返してみても、それは変わらない。日常が非日常に転換しようとする、その美しさ。

 

叡山の型(かたち)あたらし春愁に気のとほくなるほどのあをぞら

最後の恋のごときおももち横浜に春のわくら葉さりさり踏みて

闇よりくろき革衣着てちはやぶる神戸オリエンタル・ホテルへ

乳いろにたそがれゐたり見あぐれば勝鬨橋(かちどきばし)のあがるまぼろし

灯台の点る一瞬岬あり消ゆる一瞬くらき海あり

皮膚うすき人間とゐて飲食(おんじき)のさまあらはなる骨動く見ゆ

ガレージに隣家の桃が散る朝のああこの足下しかばねがある

 

懐かしい。あの頃の感受性のありようが、ふっと語りかけてくる。現在というものは長い時間を後ろにもっていて、そこには多くのもの/ことがある。林はそのことを現在から捉えようとしているのだと思うが、彼が組み立てる一首一首の感触が、確かにあの頃のものだと思うのだ。

 

学舎より眩暈(めまひ)をもちて見下ろせる冷泉家の庭つつじの火の手

 

冷泉家は藤原道長の流れをくむ公家。藤原為家の子である冷泉為相からはじまる和歌の宗匠家のひとつで、冷泉流歌道を伝承している。私たちは、冷泉家について必ずしも詳しく知っているわけではない。しかし、だからこそ「冷泉家」の奥行きを理解している。

「学舎より眩暈(めまひ)をもちて見下ろせる」。学舎も眩暈も、若者にこそ相応しいことばだ。若者だからこそ機能させられる、そんなニュアンスをもっている、ということだろうか。さらにいえば「見下ろせる」という視線のありようもそうかもしれない。

「冷泉家の庭つつじの火の手」。つつじは晩春の花。夏を予感させるとともに、淡々と、あるいは気だるく過ぎていく春を惜しむ、そんな季節の花。濃い色のつつじが満開なのだろう。単なる比喩ではなく、確かに燃えているのだ。

「学舎」「眩暈(めまひ)」「冷泉家の庭」「つつじの火の手」。これらの名詞を支える「見下ろせる」という動詞。名詞と動詞のこのバランスが、一首に確かな骨格を与えている。

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