太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。

『新約聖書 文語訳』「ヨハネ伝福音書」第一章

*「太初」に「はじめ」、「言」に「ことば」、「神」に「かみ」、「偕」に「とも」のルビ

 

文語訳の聖書は、森鴎外著『舞姫』とならび、文語で短歌を作ろうとする者の必須参考書といわれる。考えてみれば、使いなれた口語でものを表現することさえ難しいのに(いま書いた「難しいのに」一つを取っても、「難しいところを」「難しいのであるが」「難しいと思うのだが」「難しいと思われるが」「難しいといっていいが」「難しいともいえるが」「難しいといえるが」「難しいけれど」「難しいのだけれど」「困難きわまるが」「至難の業といえるのだが」等々、バリエーションは数限りない。どれが適切なのか?)、ニュアンスや語感を自分で判断できない文語でものを表現しようという行為は、勇気、というより無謀の域に近い。「無謀」を少しでも「勇気」の域に近づけるための対策が、古歌古文の読みこみはいうまでもないとして、聖書や『舞姫』の文語表現に親しむことなのだ。

 

冒頭に掲げた一行は、「ヨハネ伝福音書」第一章の最初の文だ。短歌ではない。いま強引に五句に分けてみるなら、〈太初に/言あり、/言は/神と偕にあり、/言は神なりき〉と4・5・4・8・9音に切って、一行三十音となる。手元にある日本聖書協会発行の一冊には、何語からの翻訳か記されていない。いずれにせよ、日本語のことばとしてこのような形になっており、偶然か必然か、一首の歌が含むほどの内容をのべている。

 

「太初に言あり」は、「初めに言葉ありき」としてよく知られる。一行全体を読んだ私は、文末の「言は神なりき」に驚く。いや、有名な一文なので過去にどこかで見聞きしていたはずだが、素通りしていた。このページで、ことばによって構築された短歌世界と向きあう日々に読むと、立ちどまる。立ちどまってしまう。ことばは神? そこまで断言するか。確かに、ことばがなければ人はものを考えられないし、世界を認識できない。とはいえ、ことばを「神」とするのは、ずいぶん思いきった発言だ。以下、ヨハネ伝福音書はこう続く。〈この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし〉(ルビ省略)。ことばに拠らずに成らないものはない。世界にあるものには全て名がついている。「名もない花」などという表現はあり得ないのだ。概念より言葉が先。

 

こういう信念、いや信仰のもとに、ことばによる表現活動を連綿としてきた人々に、短歌作者は立ちむかえるのか。一瞬そう思うが、すぐに日本が言霊の国であることを思いだす。

 

磯城島の日本の国は言霊の幸ふ国ぞま幸くありこそ   『万葉集』巻13

*「磯城島」に「しきしま」、「日本」に「やまと」、「幸」に「さき」のルビ

 

しきしまの日本は言霊のさかえる国だった。短歌は言霊のやどるものとされた。「はじめにことばあり、ことばは神とともにありき、ことばは神なりき」を、言霊信仰の西洋バージョンと読んでみたくなる。

 

三十一拍のスローガンを書け なあ俺たちも言霊を信じようよ  佐佐木幸綱『群黎』

 

1970年発行の歌集で「信じようよ」と佐佐木が語りかけたのは、まわりに信じる人間が少ないからだった。それから、ほぼ半世紀。日本の言霊はどうなっているか。ことばの力というものを、あなたはどのくらい信じているだろうか。

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