吉野 裕之


手を出せば水の出てくる水道に僕らは何を失うだろう

松村正直『駅へ』(2001年)

 

『駅へ』。いいなあ、と思う。駅。それは、ものやことが行き交う場所。

 

夕暮れは行方不明の道端のくぼみに残る昼間の光

大地深く降り沈む雪軽さとは軽い重さのことでしかなく

待つように言ったら待ってくれたろう二十分でも二十年でも

それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は

テーブルを挟んでふたり釣り糸を垂らす湖底は冷たいだろう

あなたとは遠くの場所を指す言葉ゆうぐれ赤い鳥居を渡る

特急に胸のあたりを通過されながらあなたの言葉を待った

 

けっして器用ではない青年が、しかし確かに掴みながらことばを組み立てていく。松村正直の歌集は、そんな作品から構成されている。器用ではないこと。もしかしたらそれは、多くの世代に届くということかもしれない。あるいは、変わらないということ。

 

手を出せば水の出てくる水道に僕らは何を失うだろう

 

「手を出せば水の出てくる水道」。蛇口のない自動水栓の水道のことだろう。いろいろなところで見かけるが、なかなか便利だ。「僕らは何を失うだろう」。しかし、失うもの/ことはあるだろう。便利であることと必要であることは、ほとんどのもの/ことにおいてイコールではない。必要でないもの/ことを利用、使用していけば、何かを失うはずだ。

とはいえ、この一首は、この便利な装置やそれが生み出された社会のことを批判しているわけではない。手を出したら出てきた水の感触に、ふと不安のようなものを感じた。その不安のようなものの質感が表現されているに過ぎない。「僕らは何を失うだろう」。

もうすこしいえば、「僕ら」は社会を構成する不特定多数の人びとのことではないのだと思う。いわば「僕ら」=「僕」とも表現できるような人びとのこと。そんな「僕ら」は何を失うのか。おそらく、何も失わないのだ。ただ、生活の具体のありようが変化するだけなのだろう。

 

声だけでいいからパパも遊ぼうと背中に軽く触れて子が言う

 

『駅へ』に続く歌集『やさしい鮫』(2006年)にこんな一首がある。この静かさ、この穏やかさが、松村の健やかさなのだと思う。