吉野 裕之


でもなあ散るにも重たげなのがなあハナミヅキどうにかならないか

平井 弘「みづ糊」(「楽座」第70号(2013年4月)所収)

 

「楽座」は、高橋幸子の季刊個人誌。定形郵便で届く、綴じられていない12ページ。

いつからだろう。表紙を開くと、右のページに平井弘の短歌、左のページに平井弘のエッセイ。表紙の「楽座」という題字は平井弘によるもの。なんだか平井の個人誌のようだが、短歌のタイトルの横には、「招待席」ということばがいつも置かれているので、当然、平井はゲストなのだ。

高橋は平井のことを「畏友」と記す。私が知る二人の関係はそれだけ。いいなあ、と思う。

 

右がはを追ひぬいてもらふいつもいつも菜の花がさいてはゐない

念をおされてそれではといつものことなんだけどいやトマトのこと

みづ糊のやうにふうじこめたのだらうゐなくなつた糸とんぼたち

二百十日だといふからだれのつてすみません風がさうなもんで

でもなあ散るにも重たげなのがなあハナミヅキどうにかならないか

歩幅がおなじやうなのですさくら並木おつてはしつたあのときと

終ひまで見たことのないみづふうせんのをわりかたここではない

 

「楽座」第70号から、「みづ糊」7首全体を引いた。いつものことだが、目がぼやっとする。変な言い方だが、どこを見たらいいのか、わからなくなるのだ。7首から構成される作品なのだから、1首目から順番に読んでいけばいいはずなのに、はぐらかされているような、拒否されているような。ひらがなの多さや旧かなによる促音・拗音の表記のしかたが理由だろう。むろん、それだけではない。5・7・5・7・7といういわゆる定型とは異なるフォルムや意味の生成のさせかたの独自性が、作品への接近を難しいものにしている。無理に接近しようとすると、まあ、無理しなくてもいいんじゃない、といわれているような気もしてくる。でも、ちょっと無理してみる。

 

でもなあ散るにも重たげなのがなあハナミヅキどうにかならないか

 

花水木は、北アメリカ原産の落葉高木。4月下旬から5月上旬にかけて白や薄いピンクの花を咲かせ、秋に赤い複合果の果実をつける。庭木や街路樹として利用されることが多いので、私たちには親しい。

「でもなあ散るにも重たげなのがなあハナミヅキ」。〈私〉は誰かと話をしている。ひとりごとかもしれないが、そうであれば、誰かはもうひとりの〈私〉。

「でもなあ」。誰かが何かをいったのだ。だから、「でもなあ」と受ける。何をいったのだろう。それはわからない。花水木のこととは限らないし、いや、花水木のことではないだろう。それを、花水木のことで受ける。そんな感じがする。だから、「どうにかならないか」というのも、花水木のことではない。

話題は花水木ではない。しかし、その内容はわからない。わかるのは、「散るにも重たげなのがなあハナミヅキ」という〈私〉の認識を提示する必要があるような質感の内容だということ。

「どうにかならないか」。このフレーズは、誰に向かって投げかけられているのだろう。話をしている誰か。読者。〈私〉。あるいは、花水木。おそらく、これらすべてなのだ。

一首で/を完結させない。それが、平井の方法。