からつぽのからだいくつもころがりをり「本番」の声までのつかのま

花鳥佰(かとりもも)『しづかに逆立ちをする』(2013年)

 

もうすぐ係がやってきて「本番です」と告げるだろう。出演者たちはいま、楽屋として割りあてられた一室で、舞台袖に向かうまでの時間をやりすごしている。鏡に向かってしきりに髪を撫でつける者、椅子に座ってスマホをながめる者、台風が逸れてよかったねえなどと壁際でおしゃべりする者。みんな思い思いのことをしているが、こころはもう、そこにない。こころはとうに体を抜け出して、うわの空という名の空に浮かんでいる。舞台に立ち、観客の前に出たとき初めて、こころは体に戻って来るのだ。それまでのつかのま、体はただのがらんどうにすぎない。

 

〈からつぽの/からだいくつも/ころがりをり/「本番」の声/までのつかのま〉と5・7・6・7・7音に切って、一首三十二音。演じるとは何かということを、楽屋風景に託して描く歌だ。上句「からつぽのからだいくつもころがりをり」がいい。比喩表現であり、畳じきの楽屋に出演者が寝転がっているわけではない。いや、実際に寝転がっているとも取れるが、そう読んではつまらない。本番を待つ出演者たちを、「からつぽのからだ」が「ころが」ると捉えたところがおもしろい。感覚の冴えがある。ことばの斡旋も周到だ。上句を平仮名表記で揃え、視覚的にも「からつぽ」な感じを出す。下句を〈本番まで〉とせず、〈「本番」の声まで〉とひと手間かける。

 

「からつぽのからだいくつもころがりをり」。こういわれると、実景としては上に書いたような楽屋風景を思いつつ、同時に、透明人間のマネキンみたいなものがごろごろ転がっている、一種シュールな景色が浮かぶ。本番前の演者というのは、実はマネキン人形になっているのだ。舞台に立ったときだけ、命が吹きこまれる。舞台を下りたら、たぶんまたマネキン人形に戻るのだろう。

 

本番で何かを演じる者。それは、歌手やミュージシャンかもしれないし、ダンサーや役者や落語家・漫才師かもしれない。あるいは手品師、サーカス団員。あるいは、カメラの前の本番を待つ映画俳優。一首は、どのようにも読める。こうした演者にとっては、本番で演じているときが、人生で最高の時間なのではないか。生きている日々の中で、その人が一番かがやくとき。舞台から下りたそれ以外の時間は、しょせん「からつぽ」の時にすぎない。読み手の中で、思いがひろがってゆく。

 

見られつつ見つつ化粧ひて少年は男盛りの役に入りゆく  春日井建『友の書』
*「化粧」に「けは」のルビ

声かくる時機をうかがふ抜かれたる腑をまだ友は取り戻し得ぬ

 

自身が舞台制作の経験をもつ春日井建は、「演じる者」を作品テーマの一つにしていた。「俳優」という章に置かれたこの二首は、楽屋風景を描く。本番前の俳優、本番直後の俳優。二首目の、舞台を終えたばかりの「友」は、花鳥流にいうなら、からっぽに戻った状態だろう。「腑をまだ友は取り戻し得ぬ」と歌はいうけれど、果たしてこの友は取り戻すことができるのだろうか。

 

第一歌集『しづかに逆立ちをする』の中で、花鳥の一首は「役者やつてみませんか」という章に置かれる。この作者もまた、自身の舞台経験を素材にしているようだ。「からつぽのからだ」の歌の次には、舞台で演じることを感覚的に捉えた、こんな一首がある。

 

つきあたりを全速力でつきぬける、するとまたつきあたりがあつて

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