三枝昂之『世界をのぞむ家』(2008年)
ごぶさたはおおかた私 ほこほこと冬至南瓜が身をあたためる
腕組みをしても解いても冬の底近づいて来ぬ人の跫音
全力という静かさや一輪の全力そして樹々の全力(詞書:丘は花ざかりとなった)
父よ、あなたが知らぬ齢を吾は歩む淡き孤独につつまれながら
子離れはもちろんしない男と男の遠近法は心得ている
パンを焼きサラダを食みて机(き)に向かうそうして日々が百年となる
新宿は風の街なりもろもろをさらってさらって空ばかりなり
穏やかだと思う。三枝昂之の歌集『世界をのぞむ家』から引いた。一首一首について何かをいうことはできるが、何もいわず、そっと受け取りたい、そんな穏やかさ。あるいは、やわらかさ。日常における位置の定め方。それがやわらかなのだと思う。
一冊が上梓されたのは著者64歳の年。「父よ、あなたが知らぬ齢を吾は歩む淡き孤独につつまれながら」。父が亡くなった年を越え、三枝は日々を大切に過ごしているのだろう。「そうして日々が百年となる」。「淡き孤独」は、自ずと時間を意識させるのだと思う。
初雪やてのひらに受け歩を止めてみんな近しき人となる街
「初雪や」。「や」は俳句でいう切れ字。たとえば「初雪や水仙の葉のたわむまで」(芭蕉)の「や」である。切れ字は、作者の感動を打ち出したり、韻律に格調を与えたりする機能を担うだけでなく、切ることにより生み出される無の空間が、無ゆえに多様な可能性へと作品を開き、作品に大きさを与える。そして、切れとはいえ接続の働きもあり、一語で相反する機能を同時にもっている。
一首では、こうした切れ字の働きが大きな役割を果たしている。「初雪や」と提示されることで、私たちは、過去や未来の初雪と出会うことになる。そう、初雪というものに包まれていく。そして二句以降、「いま・ここ」の初雪と出会う。
「てのひらに受け」「歩を止めて」。段階的な描写がいい。人びとをゆったりと包み込むような。「みんな近しき人となる」。ああ、と思う。そして、最後の「街」。そう、主役は人びとではなく街なのだ。あるいは、街の暖かさ。
移ろいの外に無言の根をおろす椨(たぶ)に戦中戦後はあらず
ところで、一冊にはこんな一首もある。この椨は、「たぶの樹を見に行つたらしい 暮れがたの二階の気配失せてしばらく」(今野寿美『かへり水』)のたぶと同じものなのかどうか。ちょっと気にはなる。
(三枝昂之の「昂」はパソコンの制約のためこの文字を使用した。)