都築 直子


自転車を盗みし父のあとを追ふ かのかなしみは我に帰り来ず

大辻隆弘『水廊』(1989年)

*「我」に「あ」のルビ

 

自転車を盗んだ父のあとを追う。歌は、若い父と幼い〈わたし〉を回想する一連に置かれており、老い惚けた父が盗みを働いたという歌ではない。父の窃盗現場を見てしまった少年が、気づかれないようこっそり後をつける。父に何が起きたのか。ショックに打ちのめされる〈わたし〉。「お父さん、何やってんだ」と声をかけるどころではない。ドラマチックな一首だ。かなしいのは息子よりもむしろ、犯行現場を息子に目撃されたことを知らない父の方かもしれない。父と息子、どちらの立場で読むかによって感想は変わるだろう。以前「短歌人」誌上で、自転車を盗めと親に命じられる歌を読んだことがあるのだが、その親に比べれば、この父は子に命じることなく自分で実行するだけ教育的配慮があるとはいえる。いずれにせよ、「盗みを働く親」が短歌に登場するのは珍しい。

 

〈自転車を/盗みし父の/あとを追ふ /かのかなしみは/我に帰り来ず〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。「盗む」というつよい語を使い、「自転車を盗みし父」と言い放つ。この断定がすべてだ。ここで歌になるのであり、あとは何もいらない。読者が想像する。だが、下句が丸々あまったので、いわずもがなのことをいった。いってしまった。作者二十代の一首だ。若書きの勢いとはこういうことか。若い時にしかさまにならない「せつなさ」の吐露。『水廊』は2013年、現代短歌社〈第1歌集文庫〉に収められた。

 

「かのかなしみは我に帰り来ず」。若き日の書き手にとっては、あるいは下句がすべてだっただろうか。ことばが練られている。「あの」ではなく、雅語調の「かの」の採用。「かの」「かなしみ」「帰り来ず」におけるカ行音の多用。「かなしみ」という抽象概念を主語にする翻訳調の文体。「帰り来ず」ということで、「帰って来る」ことを伝える否定形の使い方。上句で「追ひき」でなく「追ふ」を使い、現在のことと思わせておき、下句で回想だと明かす構成。

 

「かの」か「あの」かの選択は、悩ましいところだ。「あの」を使えば、〈自転車を盗みし父のあとを追ふ あのかなしみは我に帰り来ず〉となり、調子がゆるむ。唱歌「ふるさと」で、「うさぎ追いしかの山」と歌う部分が「うさぎ追いしあの山」だったら、間が抜けるのと同じだ。「あの」は親しみやすく、「かの」は気取っている。小野茂樹〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ〉が、もしも〈かの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ〉だったとしたら、これほど人口に膾炙しなかったかもしれない。

 

作者は第四歌集『デプス』で再び、〈ああ父はまどかに老いて盗みたる梅の若枝を挿し木してゐる〉(*「若枝」に「わくえ」のルビ)と、もの盗る父を描く。歌の素材として「盗む父」を一度ならず取り上げることは、作者の実人生上の父に対する愛情執着の深さを物語るだろう。娘による父恋の歌、息子による母恋の歌が多い中、大辻隆弘は息子による父恋の歌を書く人として、貴重な存在である。自転車を盗む父を詠んでから四半世紀後、作者は父の死を詠む「徒長枝」三十三首を発表している。

 

貯へし僅かなる金も使ひあぐね丹精をして梅を育てゐき

「徒長枝」(「短歌往来」2013年5月号)

黙禱をせよとし言へばしばらくは黙禱をしぬ昏睡の父も

いくたびか父を歌ひていくたびか挽歌のごとき吾がつくり来し      *「挽歌」に「ひきうた」のルビ