吉野 裕之


もくれんのわらわら白いゆふぐれは耳も目鼻も落としてしまふ

小島ゆかり『月光公園』(1992年)

 

砂の公園みずの公園ゆふぐれてのち影の棲む月光公園(げつくわうこうゑん)

 

『月光公園』は、小島ゆかりの2冊目の歌集。はじめて手にしたときから、このタイトルは印象的だった。月光と公園が結びついただけの、なんでもないようなことばだけれど、深くずしんと届く、そんな響きがある。げつくわうこうゑん。旧かなの表記がそのまま響きとなったような。しかし同時に、この響きのなかには知的な軽やかさもあって、やっと30歳になった私の記憶に、確かに刻み込まれた。

 

子供と子供すれちがふときまたたかぬ魚の眼をもて見合ふしばらく

箱詰めの卵の数をかぞふるに七つ目あたりにてわからなくなる

子のねむり遠浅なして永きひるゆるやかに夏の分針めぐる

柿の朱は不思議なる色あをぞらに冷たく卓にあたたかく見ゆ

上向くはうつむくよりも美しく秋陽の中に葡萄もぐ人

秋晴れに子を負ふのみのみづからをふと笑ふそして心底(しんそこ)わらふ

秋霊はひそと来てをり晨(あした)ひらく冷蔵庫の白き卵のかげに

台風の近づくゆふべ僧院のしづけさにわれは茸煮てをり

秋の日のさびしいひなた 鶏頭が兵隊のやうに並んでゐるよ

ひそかなる恐怖のひとつ閉め際にガラスは強く風の尾を嚙む

 

日常を生きている。小島は、それを実感できる作品を紡いでいく。ものやことにていねいに向き合う、その態度のありようが清々しい。

繊細さと大胆さ。これら二つのバランスが魅力だと思う。ていねいだから繊細なのだし、ていねいだから大胆なのだ。そして、ていねいだからバランスをコントロールできる。それを支えているのは、健やかな植物のような向日性。

 

もくれんのわらわら白いゆふぐれは耳も目鼻も落としてしまふ

 

このもくれんは、白木蓮だろう(正式にはもくれんはいわゆる紫木蓮のこと)。3月から4月にかけ、直径10数センチの芳香のある花を咲かせる落葉高木。高いものになると、10メートルを越えるものもあるようだ。

「もくれんのわらわら白いゆふぐれ」。ああ、と思う。確かに、わらわら白い、そんな花を咲かせる。春。暖かくなってきたけれど、しかしまだ寒さも残っているような頃の夕暮れ。嬉しいような、悲しいような。ふと、泣きたくなってしまうような。「わらわら」が、この季節の、あるいはこのときの質感をうまく捉えている。「耳も目鼻も落としてしまふ」。五感では掴めない、五感がうまく機能しない、そんな状況をいっているのだろうか。そう、「わらわら」と同様の質感のことだろう。

質感とは、世界や身体のそれ。「もくれんのわらわら白いゆふぐれ」は世界のこと。「耳も目鼻も落としてしまふ」は身体のこと。つまり、このとき世界と身体は、確かに響き合っているのだ。

小島ゆかりという作家の、したたかでしなやかな大きさを思う。