初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』
「人生どうでも飯田橋」だけをみれば単なるギャグだけれど、「グッモーニン」のあとに置かれると優れたリズムを感じ取れる。これは「も飯」の「もいい」のあたりで、初句の「モーニン」の響きを少し変えた展開があるからだ。脚韻のような位置をそろえる韻とも違う、ごくわずかな韻のずらしが歌の調べをなめらかにする。「モーニン」の特に「ニ」は発話にすこし力がいる。そのあとの「もいい」は「ニ」の母音だけをのこすので小さい力で発話できる。
そのあとに「田橋(だばし)」がくる。音の発話に必要なパワーの強弱がリズムを作っている。「人生」のあとに出てくる言葉も読者の韻律の期待を心地よく裏切ってくる感じがする。「どうにか鳴門大橋」の「鳴門大橋(なるとおおはし)」には「飯田橋」と異なって濁音がなく、するすると発話できる。このするする感が読後に余韻を作っている。「鳴門大橋」のあとにもまだ言葉が続きそうな感じがするのに、そこで終わっている。何か物足りない、満たされない感じがわずかにのこる。
現代の短歌の韻律は心の暗喩だ。歌の内容がほとんどギャグであっても内容を文字通り受け取るだけでは取りこぼしてしまうものがあると思う。歌の形で出さなければならなかった差し迫った理由があるかもしれない、そう思いながら読むことも必要だと思う。
短歌は詠嘆の形式として認識されて良い、という暗黙の了解があると思う。「かな」「かも」といった直接的に詠嘆を示す語がなかったとしても短歌であることがすでに詠嘆している。五七五七七の定型でなくても短歌として場に出されれば詠嘆を読み取れる。極端な字足らずや字余りがあってもそれは揺るがない。歌の内容にかかわらず歌にされた言葉は強烈なアテンションを起こす。言葉に注目させること、それが短歌の基本的な機能だと思う。読者は言葉に注目する。韻律を味わおうとする。だから、同じ言葉でも日常の場で目にするよりももっと強烈に言葉のこまかな響きや全体の調べを感じ取ろうとする。読者に韻律を読まれること、作者もまた韻律を読まれることを了解しているから使用を躊躇うような思い切った言葉を歌に入れることができる。
