吉野 裕之


君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった

斉藤斎藤『渡辺のわたし』(2004年)

 

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと

そんなに自分を追い込むなよとよそ様の作中主体に申し上げたい

うつむいて並。 とつぶやいた男は激しい素顔となった

くらやみに頬杖のかたちをしてる体の父がおそろしくなる

シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい

ふとんの上でおかゆをすするあと何度なおる病にかかれるだろう

 

なにかが変わったのだろうか。おそらく変わっていないのだ。だから、たとえば斉藤斎藤のこうした作品がリアルなのだと思う。

これらの作品は、けっして新しくはない。むろん、古くもない。新しいとか古いとかではなく、私たちの身体に親しいようで親しくない。いや、親しくないようで、親しい。それが、これらの作品の正しさなのだろう。正しさとは、必然性。

 

君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった

 

「7・8・5・8・7」あるいは「7・8・5・6・9」のすこし字あまりの一首。いいなあ、と思う。

「君の落としたハンカチを君に手渡して」。「君」の繰り返しがいい。「君に」といわなくても、君に手渡すことはわかる。しかし、それは意味。大切なのは、意味ではない。「ぼくはもとの背景にもどった」。ぼくは元々背景だった。そして、また背景にもどった。でも、ハンカチを渡す瞬間だけは、背景でなかった。そう、ハンカチを「君に」渡す瞬間だけは。

しかし、切ないといってしまうと、なにかが違うような気がする。切ないのだけれど、それとは別のなにかが「ぼく」の存在を確かなものにしている。確かさとは、健やかさ。