東 直子『春原さんのリコーダー』(1996年)
東直子の最初の歌集『春原さんのリコーダー』が上梓されたのは1996年。岡本太郎が亡くなった年だ。司馬遼太郎、あるいは渥美清が亡くなった年と記憶している人も少なくないかもしれない。インターネットが急速に普及しはじめたのもこの年あたりからだろう。もう17年なのか、まだ17年なのか。
おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
てのひらにてのひらをおくほつほつと小さなほのおともれば眠る
駅長の頬そめたあと遠ざかるハロゲン・ランプは海を知らない
おばさんのようなたましい取り出してしいんと夏をはじめる男
駅前のゆうぐれまつり ふくらはぎに小さいひとのぬくもりがある
森の中に出かけてゆくのわたしたちアーモンド・グリコを分けあいながら
たぶん、どちらでもなく、どちらでもあるのだろう。これらの作品を読みながら、ふとそう思う。
東のリアリティは、やわらかい。だから、ふっと入ってくる。やわらかさは、しかし核をもっている。だから、確かに入ってくる。
「そら豆って」いいかけたままそのまんまさよならしたの さよならしたの
誰が誰に「さよならしたの」だろう。「誰が」は〈私〉だろう。「誰に」はわからない。そう、具体的なことはまったくわからない。しかし、さよならした悲しみが、一首に満ちている。
いや、具体的なことはひとつだけわかっている。「「そら豆って」いいかけたまま」ということ。さやが空に向かってつくため「空豆」という字があてられたらしいが、この明るい響きをもった一語が、一首をさわやかなものにしている。
「さよならしたの さよならしたの」。四句・結句のリフレインが印象的だ。四句のあとは、一字明けで切れている、と受け取りたい。四句のそれは〈私〉の発語。結句のそれは、空から返ってくる谺なのだと思う。その声は、確かに私たちに入ってくる。