都築 直子


片脚のなき鳩ありて脚のなきことを思わぬごとく歩きぬ 

島田幸典「短歌」(角川書店 2003年12月号)

 

片脚のない鳩がひょこひょこ歩いている。一読して、むかし見た犬を思った。左の前脚のない犬が、道ばたを歩いていた。ない脚を踏みだすたびに、がくりと左肩が下がる。地面に倒れこまんばかりに下がる。でもすぐに体が起きて、何事もなかったように一、二歩進む。ここだけ見れば、ふつうの犬と変わらない。でもまたがくりと肩が倒れる。ふつう→がくり→ふつう→がくり、と歩いてゆく犬。

 

悲哀を感じて一連の動きに目を奪われていた私は、やがて「可哀想ではないんじゃないか」と気づいた。たしかに歩き方は奇妙だが、一連の動きは規則的だ。ぎくしゃくした歩みなりに、遅速なく進んでゆく。確かな足取りとさえいえる。たぶん犬にしてみれば、ふつうに歩いているだけ、というか、ふつうに歩いているつもりなのだろう。脚の具合が悪いことは感じているかもしれないが、自分の歩き方がほかの犬と違う認識はないのではないか。それとも、犬はそのくらいの認識力はあるのか。いや、ないだろう。まして、自分が可哀想とか、人から同情される歩き方をしているとは思いもよらないはずだ。遺伝子に命じられるままに歩く。それだけのことだ。可哀想などと感じるのは、犬に失礼だろう。

 

というように、一読した者をたちまち追想にふけらせるのは、歌の力である。過不足なく組みあわされたことばの力。内容を読み解こうとするより先に、場面が向こうからやってくる。「ひょこひょこ歩く」「ぎくしゃく歩く」など歌は一言もいっていないのに、情景がぱっと立つ。作者は熟達のテクニシャンだ。

 

〈片脚の/なき鳩ありて/脚のなき/ことを思わぬ/ごとく歩きぬ〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。片脚のない鳩がいて、片脚のないことを自分ではそう思っていないように歩いた。すらりと読んでしまうが、初句から結句まで考えぬかれた表現だ。もしもあなたが実際にこういう鳩を目撃したとする。心ひかれる景だ。だがいざ五句三十一音に仕立てようとすると、途方にくれないだろうか。鳩の歩き方を、説明せずに描写するむずかしさ。さらに鳩の自意識、というものがあればだが、その自意識にまで踏みこんで描くには、何といえばいいのか。

 

ここで「ことを思わぬごとく」が出るのが、力量である。「思わぬごとく」は、実際には思っているがまるで思わないように、とも読めるし、実際に思っておらずまたそのように、とも読める。さしあたり、思っていないと読みたい。鳩の認識力は、犬よりはるかに低いはずだ。犬以上に、鳩当人としてはふつうに歩いているつもりだろう。しかし、「実際は思っている」という読みも捨てきれない。鳩の自己認識はどうなっているのだろう、と「思わぬごとく」を前に読み手の想像は広がる。

 

韻律の上でも工夫されている。「片脚のなき」「脚のなき」のリフレイン。「なき鳩ありて脚のなき」における「なき―あり―なき」の反転の畳みかけ。「ことを思わぬごとく歩きぬ」の、句の頭「こと」「ごと」、句の末尾「ぬ」「ぬ」の響きあい。隅々まで神経が行きとどいている。

 

鳩の認識力を素材にした歌としては、佐藤佐太郎〈新たなる移住者といふ意識なく陸橋の下にむらがれる鳩〉(『形影』)、香川ヒサ〈空を来てスコット像に舞ひ下りぬ鳩は鳩なることを知らずに〉(『モウド』)などがある。また、池澤夏樹には鳩をめぐる印象的な文章がある。小説『スティルライフ』に池澤はこう書く。〈目の前の地面をハトが歩いていた。(中略)しばらく見ているうちに、ハトがひどく単純な生物に見えはじめた。歩行のプログラム、彷徨的な進みかた、障害物に会った時の回避のパターン、食べ物の発見と接近と採餌のルーティーン、最後にその場を放棄して離陸するための食欲の満足度あるいは失望の限界あるいは危険の認知、飛行のプログラム、ホーミング。彼らの毎日はその程度の原理で充分まかなうことができる。そういうことがハトの頭脳の表層にある。しかし、その下には数千万年分のハト属の経験と履歴が分子レベルで記憶されている。ぼくの目の前にいるハトは、数千万年の延々たる時空を飛ぶ永遠のハトの代表にすぎない〉。

 

片脚の鳩をめぐり、島田もこういうことを思ったかもしれないし、もっと違うことを思ったかもしれない。短歌の書き手として、ことばを連ねる代わりに、それらの思いのエッセンスを五句三十一音でさっと描いてみせた。

 

島田幸典は、第一歌集『no news』(2002年)以来、作品をまとめていない。『現代短歌最前線新響十人』(北溟社 2007年)には参加しており、「自選二〇〇首」に鳩の一首も収録しているが、個人の歌集は編んでいない。第二歌集が待たれる作者だ。