浦河奈々『サフランと釣鐘』(2013年)
浦河奈々はひとりの生活者として日々を過ごしている。『サフランと釣鐘』という一冊を通してそのことを思う。しかし時折、なにかとふっと出会うようだ。
まなうらにうねる紺碧 しなかつた/やつてしまつたこと押し寄せる
町内会費徴収係の女(ひと)の掌に紐あり足元のプードル静か
迎へ火をともす少女の提灯が縮んでゐるを伸ばしてやりぬ
立場とは逃れがたくてああ貴方、摩滅してゆく石像のやう
わが腕のなかで展(ひろ)がり逃げたがる満一歳のかたまりは甥
わが諸手ゆびに眼のある生き物のやうに伸びきみのネクタイ直す
熱帯夜きーんと冷えたる暗やみに木乃伊のやうに並んで眠る
そのとき、浦河のこころが動き出すのだ。おそらくそのとき、浦河ははじめての〈私〉に出会っている。はじめての、しかしずっと以前からそこにいる〈私〉。
レジの女(ひと)の指(おゆび)がひどく荒れてゐる指がわれにおつりを呉れぬ
6・7・5・7・7。初句の字余りが柔らかな、そんな韻律の一首。スーパーマーケットかコンビニか、レジで支払いをするときの情景だろう。レジ打ちを待っているときはどうしていたらいいのかがよくわからず、レジを打っている指をぼんやり見ていたり、意味もなく遠くを見ていたり、私はいつも不器用にふるまってしまう。
「レジの女(ひと)の指(おゆび)がひどく荒れてゐる」。レジの女の指がひどく荒れているのだという。このとき、〈私〉は「レジの女の指」しか見ていない。ほかのもの/ことは視界から消えてしまっている。そして、「指がわれにおつりを呉れぬ」。「女」ではなく、「指」がおつりをくれるのだ。「ゐる」は終止形であると同時に、連体形でもあるのだろう。だから、「指」の繰り返しが活きている。
おそらく、この「女」は〈私〉なのだ。「わが配るビラ受け取らず顔そむけ去り行く女 あれもわたしだ」。ビラを受け取らなかった女も、そして〈私〉が出会うほかの他者も、〈私〉なのだと思う。一冊を通して思うのは、他者とのつながりの希薄さ。他者は〈私〉。だから、つながりが希薄なのだと思う。
日日やり過ごすために己を鈍くした彼女が描くコスモスの群れ