佐々木ならず佐佐木なることだいじにてその後我は誤たずけり

竹山広『一脚の椅子』(1995年)

 

一読爆笑の歌だ。そうそう、私もそうだった! と膝を叩いて笑う。こてんぱんにあざ笑われるのだ、「佐々木幸綱? これ書いたの、あんた? 恥ずかしいねえ」と。鬼の首を取ったように勝ち誇る輩がいるのだ、「佐々木じゃないよ、佐佐木だよ。信綱も治綱もみんなそうだよ、短歌の常識。頼むよほんとに」と。

 

〈佐々木ならず/佐佐木なること/だいじにて/その後我は/誤たずけり〉と6・7・5・7・7音に切って、一首三十二音。直球どまん中の、業界内輪ネタだ。佐々木ではなく、佐佐木である点が何よりも大事なことでありまして、一度間違った〈わたし〉はその後二度と間違いを犯してはおりません、はい。というほどの歌意、ニュアンスか。「佐々木ならず」の「ず」は連用形と読む。

 

竹山広(1920-2010)は、結社心の花の会員だった。結社誌「心の花」は佐佐木信綱が創刊し、現在は佐佐木幸綱が編集発行人を務める。一首の初出が結社誌か総合誌かはわからないが、いずれにせよ「心の花」の会員が、佐佐木編集発行人の目の届くところにこういう歌をぬけぬけと出したところが味わいだ。作者が「心の花」の会員でなかったら、歌の面白さは半減するだろう。

 

三句「だいじにて」に、竹山一流の皮肉の切れ味がある。なるほど、佐々木ではなく佐佐木が正しいのであって正しいことは徹底されねばならない。いやしくも心の花会員たるもの、こんな基本中の基本を知らずしてどうするのか。正論である。だが〈わたし〉は、正論をふりかざし、大仰になげいてみせる輩に我慢ならない。腹に据えかねるモノを、「だいじにて」に託して読み手に訴えるのだ。一首の眼目は、「佐」の字についてではなく、正論信奉者への皮肉にあるだろう。

 

さて、「佐々木」と書いてバカにされた当時の私は、「佐佐木」とはなんて意地悪な苗字かと思った。だがその後冷静に考えてみれば、佐々木でなく佐佐木なのは、佐佐木家のせいではない。佐佐木家としても困っているかもしれない。たとえば、私の姓は「都築」と書くが、世の中には「都筑」という姓もあり、歌人にも「都筑省吾」がいる。同じツヅキでも「築」か「筑」か、人様にいちいち覚える努力を強要しているわけで、心苦しい限りだ。私としては、「築」を廃止し「筑」に統一してもらって一向に構わない。似たような漢字が二つある必要はない。混乱のもとだ。もしかしたら、佐佐木家だって似たことを考えているかもしれない。

 

なお、老婆心ながら、よく目につく字の勘違いをあげておきたい。

春日井健ならず春日井建  *「人でなしの建」(本人談)なのである。
未成年ならず未青年
白猫ならず白描
尾上紫舟ならず尾上柴舟
塚本邦男ならず塚本邦雄
永田和弘ならず永田和宏
竹山弘ならず竹山広

 

当代随一の皮肉の使い手だった竹山広が死去して、三年が過ぎた。竹山の後を継ぐ歌人の登場を待つ。

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