桜井健司『融風区域』(2004年)
天霧らし成果主義降る都へと向かう私鉄に多摩川を越ゆ
兜町 株にどよめく後場引けて武者二万人憂う夕刻
湿りやや帯ぶるワイシャツ脱ぐ夕べさむざむとして憤怒なき身は
『融風区域』は桜井健司の2冊目の歌集。「あとがき」で「証券業界に籍を置いてからこの四月で十八年が経過した。本書では、第一歌集においてほとんど扱うことのなかった、日常の業務等から着想し創作した短歌も置いてみたが、果してそれらが普遍的で自立した作品として形を成しているのかどうか」と述べられているように、業務を素材にした作品が多く収められている。緊張感のある韻律が魅力的だ。
カミソリにひげ剃りてのち暫(しま)らくはヒゲ消え失せてやさしき男
ころころと響きそよがせ口腔の昏きを漱ぐ妻の音階
六畳の上に眠りは深まりて折り重なりぬ長男・長女
秋の部屋たずぬれば小(ち)さくあぐらかき会社四季報読む父がいる
子がふたり白き扉(と)を開(あ)け初夏(はつなつ)のひかりのなかへ出かけてゆきぬ
八月の絵日記は風にめくられてさやぎはじめる塗りかけの海
妻と喰う桃やわらかし口中にうすくれないの秋が爆ぜゆく
同時に、家族などとの日常を描いた作品も多い。ゆったりとしたことばの運びが、ゆったりと風景を形づくっている。あるいはそれは当然かもしれないが、自然体の〈私〉が魅力的だ。
緩き時間まとう木橋を渡り終え人は陽射しの中へ還らむ
初句6音、そして結句を「らむ」で収める柔らかな韻律の一首。おそらく、桜井らしい一首なのだと思う。
「緩き時間まとう木橋を渡り終え」。緩き時間とは、どんな時間なのだろう。日常の忙しい時間から解放された時間。あるいは懐かしい時間かもしれない。子どもの頃の、もしかしたら父や母が、祖父や祖母が若かった頃の時間。そんな時間をまとう木橋を渡る。「人は陽射しの中へ還らむ」。「人」を〈私〉が見ているのか、「人」は〈私〉なのか。それはどちらでもいいのだと思う。木橋を渡り終え、陽射しの中へ還るということが重要なのだ。主体ではなく様態。だから、掬われる/救われるのだ。
桜井らしい一首なのだと思う。
きょうからは事業年度の扉(と)をひらく四月なれども雨にけぶりぬ
契約の一つ成したるわれを乗せメトロは春の洞(うろ)を走りぬ
不良にも優等生にもなれざりしわれが見上げる中年の星
『融風区域』につづく『朝北』(2011年)から引いた。多忙なようだ。