大滝和子『竹とヴィーナス』(2007年)
無限から無限をひきて生じたるゼロあり手のひらに輝く
この一首を巻頭に置く『竹とヴィーナス』は、『銀河を産んだように』(1994年)、『人類のヴァイオリン』(2000年)に続く、大滝和子の3冊目の歌集。
腕時計のなかに銀の直角がきえてはうまれうまれてはきゆ
父の墓洗いきよめて秋日や主語述語ある世界をあゆむ
水壺を頭に乗せて運びゆく女のように立ちどまりたり
いにしえのギリシャに野球ひろめたく炭酸水を飲み干すわれは
ラッコいる動物園ともカトリック修道院とも近く棲みおり
テーブルの麦酒ごしなる青年は歴史のように伏せた目をあぐ
わが影を川の水面(みなも)にあそばせて日輪という祖先しずけし
こうした作品を読んでいると、私たちのなかに、大きさが立ち上がってくる。大きさとは、対立や矛盾といったものを生まない、不思議な、そしてとても魅力的な感受性のこと。それは、調和を産みだす感受性。しかしこの調和は、対立や矛盾の手前にあるのではなく、向こうにあるもの。自らの身体をもって時間なるものに向き合う、そんな構えによってこの調和は支えられているのだと思う。
おそろしき桜なるかな鉄幹と晶子むすばれざりしごとくに
桜はおそろしい。桜は、桜というだけでおそろしい。私は、長くそう思ってきた。それは種としての桜。ここでいう桜は、個としての桜。「おそろしい桜」は、確かにある。私もそうした桜を何本か見てきたが、おそろしさそのものを掴んでみようと思ったことはなかった。しかし、大滝は鷲掴みにする。
「鉄幹と晶子むすばれざりしごとくに」。激しい直喩だ。ぐらぐらする。鉄幹と晶子が結婚したのは、
『みだれ髪』が上梓された1901年(明治34年)。鉄幹と晶子がむすばれなかった100年を思う。むろんそれは、時間的な量のことではない。
「桜」「鉄幹」「晶子」。漢字はこの3つだけ。一首を成立させている「おそろしき」「むすばれざりしごとくに」はひらがな。巧みな一首だと思う。
反意語を持たないもののあかるさに満ちて時計は音たてており 『銀河を産んだように』
あおあおと躰を分解する風よ千年前わたしはライ麦だった
さみどりのペディキュアをもて飾りつつ足というのは異郷のはじめ
はるかなる湖(うみ)すこしずつ誘(おび)きよせ蛇口は銀の秘密とも見ゆ 『人類のヴァイオリン』
スカートの影のなかなる階段をひそやかな音たてて降りゆく
月齢はさまざまなるにいくたびも君をとおして人類を抱く
2冊から3首ずつ引いた。やはり大きい。