魚村 晋太郎


アボカドの種子に立てる刃 待つといふ時間はひとを透き通らせる

森井マスミ『ちろりに過ぐる』(2009年)

アボガド、というひともいるが、アボカド、が正しい、と塚本邦雄がよく怒っていた。
熱帯、亜熱帯に生育するクスノキ科ワニナシ属の植物で、タブノキと近縁。ワニナシというのは果皮の感じと洋梨のようなかたちからつけられたアボカドの和名だ。
植物の果実には、種子をひろく散布するための工夫があり、アボカドの種子は鳥獣散布型に分類される。
鳥獣散布型の果実は豊富な糖分で鳥獣をひきよせる場合が多いが、アボカドの場合は豊富な脂肪分で鳥獣の気をひく。
といっても、ひと以外の動物には毒性をしめすことがあるというから不思議だ。

アボカドは、梨や林檎のように果皮をむくことがむずかしい。
たいがいは長い方向に刃をいれ、大きな固い種にそって刃を一回転させてふたつに割る。

待つということ。
とりわけ、恋しいひとを待つ時間は麻薬だ。
どんな恋人でも、完璧なひとはいない。
あっていれば嫌なところも見えてくる。
でも、逢えなくて待っている間は、そんなマイナスの部分は見えない。
もちろん、来ない相手を待っている間に、腹がたってきたり、どうでもよくなってきたりすることもあるが、一首の主人公の場合、待っている時間はこころを占領し、研ぎ澄ましてゆく。

ひとはいろんなスパンで、ひとを待つ。
約束の時間に来ないひとを待つ場合、10分、20分待つ場合でもいらいらする。
今日来る、と言っていたひとがなかなか来ず、半日くらい待つ場合もある。
必ず迎えに来る、と言って去ったひとを10年も20年も待つ場合もあるだろう。
ひと生きてゆかなければならないから、待つひとが来ない場合、待つ気持ちは次第におとろえてゆくことが多い。
けれど、来ないかも知れないと気づきながら、待つ気持ちがおとろえない場合、ひとはどう生きてゆけばいいのだろう。
一首からはそんな、狂気すれすれに、でも透明に研ぎ澄まされたこころのありようが感じられる。
脂肪質のやわらかな実をえぐり、固い実に切っ先をあてる刃の感触そのままのこころである。