江戸 雪


いつの世か会ふといへども顔も見ず訣れしゆゑに吾子とわからじ

西橋美保『漂砂鉱床』(1999年)

もうこれ以上の哀しみはないだろうと、ひとは生きているうちにそうおもうときが何度かある。
ひととの訣れはそのうちのひとつだ。

子どもを喪う哀しみ。身が引き裂かれるような哀しみだ。
未生の子だった。だから「顔も見ず」なのだ。どんなに会いたかったか、どんなに抱きたかったか。母は後悔さえできないふかい喪失感に苛まれる。
「いつの世か会ふと」自分に言いきかせて、生きるほかない現実。
時間は止まることがないから、動き続ける世界のなかで、自分はいきいきとした陽射しを浴びるしかない。そうして、元の生活にもどるけれど、しばしば哀しみは身体のなかでうごめいたまま。だからふと、顔を知らないから会ってもわからない、とおもい至ってしまう。

ほんとうの哀しみは、日を追うごとに大きくなっていくものだ。
その事実を受け入れることができたとき、すこし楽になるのかもしれない。
歌集のおしまいの章にこんな歌があった。

鳥になつて生きてゐるかもしれぬ子にケーキを置きぬ庭の餌台