魚村 晋太郎


金木犀 母こそとはの娼婦なるその脚まひるたらひに浸し

塚本邦雄『水銀伝説』(1961年)

ことしも金木犀が咲きはじめた。
きれいな香りだけれど、黄橙色の花がさかりとなって地にこぼれるころになると、そのつよい香りにたまらない気持ちにもなる。
一首は一字空けによって、金木犀の季節、そしてその香りをあざやかに印象付ける。

母こそが永遠の娼婦なのだ、という表現は、不謹慎に感じるひともいるかも知れないが、切実な断言である。
男の悦びのために体をひらく娼婦と、生まれてくる子供を身のうちに育む母親。
他者の生のために、自らの命のほとぼりを捧げるもののかなしみ、と仮に言っておいてもいい。
けれど、母にも娼婦にも、かなしみだけではなく、貪欲さや強さだってある。
散文的に説明できない、矛盾をはらんだ人間の生のあり方が、一首の断言によってうかびあがってはこないだろうか。

キリスト教、或いは、キリスト教美術も一首の背景になっている。
イエスの磔刑、埋葬の場面にも登場し、イエスの復活を最初に知ってイエスから声をかけられるマグダラのマリア。
聖書にはっきり書かれているわけではないが、彼女はかつて娼婦でありイエスに出会って悔悛したと信じられるようになった。
キリスト教美術のなかでは、艶やかな裸体で描かれることもあれば、うつむいた少女のような姿で描かれることもあり、娼婦性と敬虔さの二面性をあらわしてきた。
死んだイエスの足に香油を塗ろうとしたエピソードから、彼女の足もとには香油壜が描かれることがある。
一首の金木犀は香油の香りを、盥は足もとの香油壜を、どこか連想させるところがある。

では、一首はマグダラのマリアを描くイコンなのかといえば、そうではない。
庭先か路地裏で、盥で足をひやしている、或いは行水をしているわかい母親の姿は、それが主人公自身の母親であるかどうかは別として、ありありと敗戦後の日本の情景である。
戦後の困難な時代をたくましく生きながら、ぬれた素足をまひるの陽にさらしている母と、マグダラのマリア。
その二重像がひとつの焦点をむすぶ場所に、人間の生のあり方をきびしくみつめる作者の眼差しがたちあがってくる。