この人はこんな感じで怒るのか ヒトは怒ると大体こわい

工藤吉生『沼の夢』
(左右社、2024)

歌集のタイトルは『沼の夢』というのだが、これはまさに内容を体現していて、それこそ沼にはまったような日常を執拗に描いていながら、どうも現実感がない。沼にはまってんなと自分を見つめながら、もしかするとその人自身は沼から抜け出そうともがいているのかもしれないが、歌にはどうも抜け出そうとした痕跡が見えない。「うたう主体」が「うたわれる主体」からいつの間にか乖離して、「うたわれる主体」がもがこうとするのを、「うたう主体」の方が特に感情も抱かないままぼんやりと見下ろしている。読者も、ブレーキ痕の残らない事故現場をみるような、ある種不可解な気持ちで歌を読んでいく。

掲出歌で、「この人はこんな感じで怒るのか」というとき、それは紛れもなく自分が怒られているのだろう。なにしろ「こわい」という感想がついているのだから。しかし、その「こわい」という感情を抱いているのは「うたわれる主体」であり、「うたう主体」のほうは感情にはなんの義理もございませんとばかり目の前にいるヒトの観察を始める。「こわい」と最後に書いてはあるものの、それは記録としてとどめているだけで、そこに切実さは感じられない。一首の短歌をつうじて読者がつきあうのは、「うたう主体」のほうであるから、この無味乾燥とした「こわい」に首をかしげることになる。

街路樹のひとつひとつを見て歩きどれもオレより孤独とおもう
オレだけにこんなにいきり立っている犬に会ったり人に会ったり

これらの歌で「オレ」とあるのは「うたわれる主体」の方であろうと思う。「うたう主体」と「うたわれる主体」は二人羽織のようにして街を歩いている。私は、「オレ」が街路樹を見て歩いているというとき、それは孤独かどうかを確認するためではないという気がする。散歩をしながら、葉の色に季節の移ろいを感じ取ったり、へんな虫がついている、と見ているだけなのかもしれない。しかし、「うたう主体」の方は同じものを見ながら、「オレ」と比べて孤独かどうかと考えている。街路樹の方が孤独だ、と「うたう主体」はジャッチを下すが、そんな審査をされるくらい、「オレ」も孤独である。

見れなくて涙流したこともある「となりのトトロ」のテレビ放送
「なつやすみがあと4にちになっちゃった」昔のオレが母に泣きつく

まるで悪魔のような「うたう主体」なのであるが、「うたう主体」なりの不器用な方法で「うたわれる主体」を愛していると、思われるフシもある。歌集の序盤には泣くオレの様子を書き留めた歌もあり、それらのうちのいくつかは子供時代の涙である。泣く、ということは感情がもっとも客観的に表に出る現象で、「うたう主体」はそれを好んでコレクションし、遠い過去の涙も歌にする。それは「うたわれる主体」がもう忘れてしまった「うたう主体」の手帳にだけ書き留めてある涙なのではないか。そのうち、ほれ、おまえのだよ、といいながら、子供時代からの涙の数々に「こわい」や「孤独」をも添えた感情のドライフラワーを「オレ」に手渡す、そんな日が訪れそうだ(それがこの歌集なのかもしれない)。

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