膝がしら並べていたねゆるしあう術もないまま蝶を飛ばせて

ひぐらしひなつ『きりんのうた。』(2003年)

とにかく相聞は甘くなければ、とわたしはおもう。
けれど、ただ甘いだけでは物足りない。すこし躊躇や暗さがほしい。
いやいや、あっけらかんとした愛もまたいいなあ。
などと、相聞にはあれこれ注文をつけたくなる。

「膝がしら並べていたね」。
色づく街路樹のしたのベンチ。潮風のふく防波堤。学校の階段。
これらの場面は、おおくのひとの記憶のなかにあり、となりにはきっとこいびとがいる。
なにもはなすことがなくなっても帰ろうとせず、ほほえみあっていた。

二句目までの甘い場面から、三句目以降はすこし暗さがただよう。
「ゆるしあう」というのは、なにかの過ちをゆるすというようなものではなく、生まれてきたことの不条理への漠然とした不安の解消、という感じだろう。
ふたり、黙ったまま、不安を揺らしあっている。
その揺らぎを具現化するように、「蝶」が飛んでいる。だから、この「飛ばせて」がいいのだ。
飛んでいる、ではなく、ふたりが「飛ばせて」いる。
あるいは、それは蝶のような若い愛への呪詛なのかもしれない。
蝶は、クロアゲハだ、きっと。

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