よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

明治天皇『明治天皇御集 昭憲皇太后御集』(1929年)

 

1904(明治37)年に明治天皇が詠んだこの歌が話題になっているのは、平山周吉『昭和天皇「よもの海」の謎』(新潮選書2014年)においてである。この明治天皇の歌が、太平洋戦争開戦の決め手のように使われたと平山の著書は読み解いた。

以前にも紹介したが、明治天皇は生涯に10万首を超す歌をつくっている。日露戦争が始まったこの年は、日々40首、年間に1万首。そのうちの1首である。そして、この1首は、とりわけよく知られた歌であった。英訳されて、セオドア・ルーズベルト米大統領をも感動させたという逸話もあり、明治天皇の「平和愛好の御精神」が強調された歌である。

日露戦争の開戦にあたって、明治天皇には危惧があった。世界は全てが兄弟姉妹である平和な時代であると思っているのだが、どうして波風が立つような動乱の兆しがみえるのだろうか。このような内容になる。一読、戦争忌避、平和愛好を感じて不思議ないだろう。

それから少し時間がたった。1941(昭和16)年9月6日――この日、日米開戦の是非を問う御前会議が開かれた。出席者は近衛文麿首相以下15名。会議の最後に昭和天皇は異例の行動に出る。明治天皇のこの一首の歌を読みあげたのである。平山周吉のこの本に引用された「石井秋穂大佐回顧録」に記された御前会議の最後の様子を見よう。石井は当時陸軍軍務科高級課員、つまり事務方として参加。冷静な観察が期待できる。

 

「最後に天皇陛下は御親(みずか)ら御発言遊ばされ先ず『枢相〔原嘉道枢密院議長〕の質問に対して統帥部が答えないのは甚だ遺憾である』と仰せられポケットから紙を御出しになり『四方の海皆はらからと思う世に/など波風の立ちさわぐらむ』との明治天皇の御製を二度朗読あらせられ『自分は常に明治天皇の平和愛好の精神を具現したいと思っておる』とお述べ遊ばされた。」

 

ということだ。天皇は大元帥でもある。この明治天皇の歌を読みあげたということは、あきらかに戦争不可、外交努力をいっそう推進せよという意志の表明であろう。ところが、この国は戦争の道を選択した。天皇の意向を無視するがごとくに。そこに何があったのか。

それを解くカギは、佐佐木信綱『明治天皇御集謹解』と渡辺幾治郎『明治天皇と軍事』、それに「朝日新聞」1942(昭和17)年3月10日の渡辺の謹話の記事である。詳しくは、平山の周到微細な謎解きを読んでいただきたい。開戦に突き進んでいた陸軍関係者は、昭和天皇が提起した明治天皇の平和愛好の歌、それは戦争の回避を意図するものであったが、いくつかのこの歌の解釈をめぐる論を参照することによって、まんまと開戦への裁可と読み替えてしまったのであった。

「よもの海」の歌は、明治天皇が日露開戦当初に詠んだ和歌で、「そして畏多いことながら、今上陛下の大東亞戦に臨ませられる大御心も明治天皇といさゝかもお変りあそばされぬのである」(朝日新聞記事)と。

昭和天皇は、おそらくこうした戦争を促進する解釈が存在することを思いもしなかったのではないか。この歌を出せば、戦争への逡巡が生まれるはずだと考えていたのではないか。ところがところがであった。切り札のように使った「ことだま」が、すり替えて読まれて逆に利用されることになるとは想像だにしなかったに違いない。太平洋戦争開戦の一秘話といったところだろうか。

後に昭和天皇が、文学のあやというような発言をしたことがある。その「あや」は、こうした問題と繋がっていたのではないか。昭和天皇は終生短歌を愛し、作りつづけていたが、終戦の決定の折には、そのような曖昧な和歌を持ち出すこともなく決然と敗戦を認められた。

天皇と政治、短歌と政治、むずかしい、しかし本質にかかわり、さらに昭和史の暗部にかかわる議論である。そのきっかけとして平山の著書を読んでみるのも良いだろう。ぜひお読みいただきたい。